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第8話 アイス

「あ、アイスはお嫌いでしたか?」  心もとない結城の声に、ハッと我に返る。 「あ、いや、アイスは好きです。……特に、じぇ、ジェラートは……」 「良かった」  寂しそうな表情がホッと緩み笑顔を見せた。  実に爽やかな笑顔だ。これがギャップと言うものか。  しみじみと見つめる市五郎の頭の中に浮かぶんでいるのは、イタリアンレストランで見た結城の姿だった。  昨夜の結城さんはメガネをしていなかった。きっとメガネを取るともっと可愛らしく、とてつもなくいやらしくなってしまうのではないか……。  レンズ越しではない可愛らしい目が、目の前の結城の目と重なる。  昨日、激しく何度もされた余韻を微塵も感じさせない。知らない人間ならすっかり騙されてしまうところだ。しかし、よくよく見れば、爽やかな笑顔のあとの表情など、なんとも憂いを帯びて艶めいている。やはり、昨日の余韻が身体に残っているのかもしれない。そんな身体で外を歩くのは、きっと酷だったことだろう。  尻が辛いだろうと、市五郎は結城へ再度、座布団を進めた。 「一緒にアイス、食べましょう。結城さんはどうぞ座っていてください」 「急がなくても大丈夫ですよ。小分けになってるんです」  結城は袋の中から四角い箱を取り出した。蓋を開け中の物を持ち上げ見せる。牛乳瓶の半分サイズくらいだろうか、小さなかわいらしい陶器の器だ。集乳缶の形をしている。それを机に置き、プラスチックのスプーンを出した。 「スプーンもあります。六個入りなので食べない分だけ冷凍庫へ入れましょう。味が全部違うらしいんですよ。ミルク、クリームチーズ、かぼちゃ、イチゴ、抹茶、リッチエスプレッソ。高山さんはどれがいいですか?」  アイスの説明をする結城の表情はあどけなく、とても可愛らしい。市五郎は思わず、これが本当の結城だと勘違いしそうになった。 「私は、ミルクを……」  そう口にした瞬間、男の放出したものを体内で受け止めている結城の姿が浮かびほんのり下腹部に熱を感じてしまう。 「では、僕、イチゴをもらってもいいですか?」 「……どうぞ。あ、では、熱いコーヒーを淹れましょう。用意してきます」  今までの人生で「イチゴ」という単語をあんなに可愛らしく発音する男に会ったことがない。どうして「イチゴ」と言う前に、ちょっと照れた表情をしたのだ。あれが結城さんのテクニックというものか? それとも無意識なのだろうか?  いかん、いかんと己をたしなめる。  あんまり動揺すると、昨夜目撃したことを結城さんに察知されてしまう。落ち着かなくてはいけないと、市五郎は小さく深呼吸した。 「ありがとうございます」  市五郎の動揺に気付かない結城がキチンと頭を下げる。市五郎はたじろぎながら無表情を装い部屋を出た。台所でコーヒーメーカーをセットし、気持ちを立て直し書斎へ戻る。 「う!」  結城はピシッと姿勢を正し正座していた。行儀よく腿の上に手を乗せ、アイスを前に「待て」をしている。  まるで従順なワンコのようではないか。可愛いとしかいいようがない。しかし、裏の顔を知っている私には通用しない。可愛いではなくて、「あざとい」と思わなければならないのだ。だがしかし……。  葛藤を胸に市五郎は平静を装う。 「……お待たせしました。では頂きましょう」 「はい」  ニッコリ微笑んだ結城は、市五郎がアイスを手に取ったのを確認してから器を手にした。  ああ、なんてお利口なのだ。と、隙あらば邪よこしまな妄想が顔を出す。 「うむ……これは、美味しい」  市五郎の言葉に結城は「そうですか」とまた嬉しそうな表情になる。  そんな無邪気に微笑んでも私には通用しないと言っているのに。  市五郎が心の内で繰り返す。 「あ、ちょうどいい具合に溶けていますね」  結城はほどよいジェラート感を出しているアイスを掬い上げ、すでに食べ始めている市五郎に「ほら」と嬉しそうに見せてくる。  そんな子供っぽい仕草も、なんというか……ナチュラルだ。演技とは思えない。これもまた、結城さんの素顔なのかもしれない。    信じてみたくなる。そんな自分に「いやいや、お前はとことん甘いな、市五郎」と、もう一人の市五郎がたしなめた。 「あー、イチゴ美味しい。濃厚だけど酸味もちゃんとあって!」 「ああ、そ、そうですね……結城さんは……」  いや、待て。なにを言うつもりだ? 男の恋人がいるのかと聞くつもりなのか? 変な質問は墓穴を掘るぞ。……掘る……。いやいや、そうじゃなくて、今、結城さんとトラブルを起こすのはマズイじゃないか。新しく私の息子を……じゃない、担当を請けおってくださっているのに。  市五郎は脳内で自分の頬を思いっきりビンタした。  プライベートは関係ない。割り切らなくてはいけない。 「このジェラート、デパートで買ってきたんですよ。お取り寄せスイーツフェアというのぼりが立っていて……あ、すみません。なんですか?」 「いえ、なんでもありません。あ、コーヒーもってきます」  キッチンからコーヒーの香りが漂ってきたのを助け船に立ち上がる。 「あ……結城さんはブラック飲めますか?」 「はい。ブラックで」 「良かった。この家にはスティックシュガーも、ミルクもないので」 「そうなんですか。高山さんもブラック派なんですね」 「そうです。ゴミが出ないのも気に入っています。基本、合理的なので」 「あぁ、なるほど。たしかにめんどうですもんね」  台所へ入り食器棚からコーヒーカップを二つ出す。ホッとして深く息を吸い込んだ。  今のところ、ただの出版社の人間と、物書きの人間の会話になっているはずだ。  コーヒーをカップに注ぎ入れながら、ふと思う。  こんな風にあたふたするのは何年ぶりだろう。やはり人見知りには結城さんのような強烈なキャラクターは心臓に悪い。

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