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第9話 新作
トレーにコーヒーを乗せ書斎へ戻り、結城の前へカップを置いた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
結城はアイスを置き、コーヒーカップを手に取り「いただきます」と丁寧に挨拶してコーヒーをすする。
「ふぅ。美味しい。アイスとコーヒーって合いますよね」
「そうですね。それに、暑いのが苦手なので、つい部屋を冷やしてしまうのですよ。だからホットが美味しいです。あ、寒くないですか? エアコン」
「はい、大丈夫です。お気遣いなく」
爽やかに一点の曇りもない笑顔で受け答えする結城。その清楚な笑顔に引き込まれるように市五郎の口は開き、気がついたら口走っていた。
「昨日……」
「はい」
市五郎の「昨日」と言う言葉に対しても、結城は少しの動揺を見せなかった。真っ直ぐ見返す結城に、逆に市五郎がうろたえてしまう。
「き、昨日、一本、書けました。短編ですが」
結城の表情がパアッと明るくなる。
「そうですか! いやー、来てよかったです!」
結城はカップをソーサーへ戻し、姿勢を正すと前傾姿勢になった。昨日のレストランでの仕草を思い出す。柔らかそうな唇をつい凝視してしまう。
「見せていただけるんでしょうか」
キラキラと目を輝かせる結城を拒否できるわけがない。
「あ、はぁ。……このパソコンで良ければ」
市五郎は席を譲りつつ、今書いていた妄想の産物を焦りながら閉じ、昨日書いた物をクリックした。
「どうぞ、私は縁側でタバコを吸ってきます」
「はい。では拝見します」
市五郎は立ち上がりタバコをポケットに突っ込むと、縁側から庭へ出た。三時の時点では茹だるような暑さだったが、今は少しマシになったようだ。庭木への水やりはまだ出来ないが、打ち水はしておこう。庭の隅にある、繋いだままのホースの先端を持ち蛇口を捻る。噴き出た水はお湯のように熱かった。それが冷たくなったのを確かめ、庭石や石畳へこれでもかと打ち水をする。
昨日、市五郎が執筆したものはやはり爽やか系の短編だった。その前が学生ものだったので、今度はサラリーマン同士にしてみたのだが……、結局は幼馴染との恋だ。濡れ場もない。作品としてはあんまり喜ばれる系統ではないのかもしれない。
水まきを終え、タバコの後始末をする。書斎へ戻った市五郎へ結城が言った。
「読ませていただきました。こちらはこのまま持ち帰りますね?」
「あ、はい」
結城の反応は「ダメ」と言うものではなかった。持ち帰るということはオーケーなのだろうが食いついている様子でもない。自分では判断できないから森さんに判断を仰ぐのかも……、などと考える。
市五郎の胸の内で小さなため息が漏れる。その直後、結城が口を開いた。
「あの。それと先ほど、高山さんが閉じられたウィンドウの、アレは短編ですか?」
ギョッとして固まる。ほんの一瞬だったのに、結城は見逃していなかったのだ。
アレは、アレは……。
それこそ、昨日の結城をモデルにして書いたものだ。あの二人からはどうしたって爽やかな純愛ストーリーは生まれてこない。
「そ、そう、です。まだ途中なのですが……えっと、さっきのとは、まったく違う系ではあります」
「途中……」
結城は唇をすぼめ、考えるように俯いた。が、すぐにお伺いを立てるような表情で市五郎を見上げる。
「……見せていただく……なんてことは可能でしょうか?」
心臓がギュッと掴まれる。
ま、まさか、チラッと読んだだけで主人公のモデルが結城さんだとバレてしまったのだろうか?
まさかそんなことはと思いつつ、市五郎の背中に嫌な汗がツーッと伝った。しかし、見せられないとはとても言えない。相手は編集者なのだ。作品の途中でチェックし、アドバイスを貰えるのは有難いことだ。途中だから無理だ。なんて言えるのは大御所くらいのもの。
市五郎は震える手でマウスを握り、ファイルをクリックした。
「い、いいですよ。……これです……」
心臓は激しく動揺し痛いほどだ。いっそこのまま病院送りにしてくれないかと思った。
結城は「失礼します」と言って指の背でメガネを押し上げ、画面に目を向ける。
長い沈黙が部屋中に充満する。スクロールされる画面。滝のように噴き出す脂汗。
結城は最後まで読み終え、市五郎の緊張から解放されるという期待も虚しく、更にもう一度読み直す。たっぷり時間をかけて二度目を読み終えた結城が、マウスから手を離し、静かに腿に手を置いた。
「……高山さん」
き、キタ……。
市五郎はゴクリと生唾をのみ込む。
「は、はい」
市五郎も知らず知らずに正座し、結城を見守っていた。呼びかけられ背筋が伸びる。結城はまっすぐ向きなおった。
「短編とおっしゃっていましたよね」
「……はい……」
「どうです? これをシリーズものにしてみませんか?」
「シリーズ……ですか?」
予想外の言葉に耳を疑う。
「実は新しく連載の枠がありまして。連載となると短編というわけにもいかないんですが……、面白いですよ。コレ。恋愛一辺倒でないのがいいですね。アクションやエンターテインメント性もあるし、クライム要素もある。濡れ場だけでなく、一味違ったドキドキもプラスされていて引き込まれます。いけますよ! 新しいと思います」
思いがけない申し出に、余分な考えは市五郎の脳内から跡形もなく消えた。結城の力強い言葉が嬉しい。今まで書いてきて、こんな風に勧められたのは初めてだ。
「主人公がこう……なんというか、清純じゃない。と言っては変なんですけど……仕事で必要ならこういうのも厭わないって感じもありなんでしょうか?」
「は、はぁ。まぁ……」
昨夜・・・の結城さんなら、あれくらい軽いものだろう。
「需要もあるので、ウケる作品が並びがちなんですよ。でも同じようなのばかりでも退屈ですよね。こういう一風変わった切り口での、真新しい風を僕は入れてみたいんです」
熱のこもった口調に心が震える。目の前が開かれたような感覚。手を繋いでいるわけではないのに、手のひらに結城の体温が感じられる気がした。光の中へ共に踏み込むような高揚感。
内心の興奮を押さえ込み、市五郎は静かに答えた。
「勿体ない申し出をありがとうございます。わかりました。結城さんの期待に応えられるよう、全力で取り組みます」
「食い付きますよ。きっと今の僕のように。うん。これは僕らの第一歩になるに違いない」
市五郎の胸をまたもや衝撃が打った。己の気持ちが全て、結城に丸わかりなのかと思うほどだった。いや、そんなことはどうでもいい。結城の「僕らの第一歩」という言葉が指しているのは、出版社で交わしたあの会話の開始の合図であった。
本を出すお手伝い────。
結城さんは社交辞令ではなく、本気で言っていたのだ。こんな私に……。
真摯な瞳に打ち抜かれ言葉が、出ない。
胸の中で桃色の法被はっぴを着た小人たちが集団で「えっほ、えっほ」と声をかけながら神輿みこしを担いでいる。その神輿はハート型だった。
市五郎は目を伏せ、深々と首こうべを垂れた。
「精一杯やりますので、ご指導、ご鞭撻のほどをよろしくお願いします」
こうして高山市五郎は、結城真人にあっさりと、完全な恋に落ちてしまったのである。
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