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第10話 恋する男

「このお話が上がりしだい連絡くださいね。お待ちしております」  結城はそう言って帰っていった。それから、市五郎は一時間くらいぽうっと呆けていた。  色々と考えなければいけないことは沢山あったのだけれど、まずは己の気持ちを鎮めるのが先だった。  市五郎はボーイズラブ作家などしているが、同性愛者ではない。どちらもいける、などという器用さも持ち合わせていない。今までの経験も女性のみ。かといって女性がいなければ生きていけない。というタイプでもない。  淡白で、煩わしい人間関係がただただ苦手だ。人見知りはそれに拍車を掛けたし、最初の結婚で妻が妊娠した時は素直に喜んだけれど、のちにそれが不倫相手の子供だと分かってからは、結婚というものに一切の幻想を抱かなくなった。  淡白とはいえ人を愛する気持ちも、愛されたい気持ちも人並みにある。元妻を市五郎なりに真剣に愛し、生涯を共にしようと決めたのだった。そもそも『生涯』という考えが時代遅れだったのかもしれない。  当然、荒れた時期もあった。  毎晩飲めない酒を飲んだこともある。  その頃、近づいてきた人間の中になぜか男もいて、そういう世界もあるのだと認識したのだ。「ノンケに興味はないから」と言いつつ、彼は市五郎の傍にいてくれた。  もし市五郎が彼に好意を抱いていれば、それはそれで、新しい関係が築けたのかもしれない。しかし、市五郎は彼に感謝こそすれ恋する気持ちは一度も抱けなかった。  ボーイズラブ作家になったのもそういった気持ちからだった。痛い経験を経た市五郎に、十代の頃のように女を愛することはできそうにない。しかし純粋に恋をしてみたいとも思わせた。あるいはまだ知ることのない愛を求め、彷徨っていたのかもしれない。  結婚に対して幻想などないくせに、自分の中の「恋する部分」はまだ残っていると信じていたかったのだ。完全に世の中との交わりを絶つことができないのもそのためだ。  市五郎は己を基本ポジティブだと思っている。  世を諦めていても、不信であっても、人間が好きなのだ。親密になるのは面倒だけれど、一人は寂しい。ボーイズラブへの妄想はそんな市五郎の救いであり、癒しだったのだ。  気が向けば散歩して、気が向けば出版社へ出向く。人間観察をして世の中を知っている気になり、編集者の森と三十分くらいミーティングをすれば、社会と繋がっている感覚になれた。それだけで満足だった。  なのにだ。  市五郎はその晩、久しぶりに眠れぬ夜を過ごした。  イチゴアイスを選ぶ時のはにかむ表情のあとに浮かんだのは、イタリアンレストランで中年男性の指を舐めるようにキスした結城だった。  やはり、あの男性と付き合っているのだろうか。それとも、世俗でいうところのセフレ? またはパパ活?  考えても、考えても、昼間の結城とは別人に思える。  市五郎は眠るのを諦め布団から出ると、パソコンの電源を入れた。 ◇ ◇ ◇  結城へ短編データを渡してから一週間が経つ。  勿論、結城からの音沙汰もない。当たり前だが、差し入れも来ない。 「……はぁ……」  市五郎は冷凍庫の中を悲しげな表情で眺めていた。  結城が土産で持ってきたアイスが一個しかないことを確かめているのだ。アイスが残りひとつになっただけで胸が締め付けられるとは相当重症である。  早く結城さんへシリーズ一話目が書けました、と連絡がしたい。結城さんの喜んでいる顔が見たい。そのためにも完璧な一話目を完成させたい。  市五郎の想いとは裏腹に、物語は遅々として進まない。  短編と違って長編は大変だ。まず、プロットからしっかり練り直す必要があった。主人公の細かな設定、登場人物も増やす必要がある。  主人公の勤めている表会社と裏の任務。陰謀を阻止するためのエキスパートが集まったチームの個性溢れる面々。考えれば考えるほど調べ物が増えていく。その集めたデータをもとにプロットを構築し、いろんなトラブルを効果的に、どう話に盛り込んでいくか。主人公の相手役も敵か味方か分からない微妙な位置関係にある方がいい。敵対関係なのに惹かれてしまう、というパターンも面白い。  こんなに脳を使ったのは生まれて初めてかもしれないという程、頭を悩ませシリーズ全体のプロットを考えた。人気が出なければ、いくらシリーズとして作品をだしたいと思っても叶わない。一話毎のクオリティを高め、かつ、エンターテインメント性を損なわないようにしないと。  考えながらスプーンでアイスを掬ったら、空っぽになっていた。  気を許せば、容赦なく寂しさが市五郎に覆いかぶさってくる。  アイスが終わってしまったことにガッカリしている場合じゃない。プロットは完成した。結城さんにチェックしてもらい、ゴーが出たらあとは己を信じて書くしかない。あの短編をプロローグにして、時間軸を戻し、最初から書いていこう。  市五郎は携帯を取り出し結城へ連絡した。結城の都合が良ければ、いつものように出版社に持っていくつもりだった。しかし生憎、結城は外出中。しかも本人から「社に戻ったらすぐに確認します。じっくり検討したいので、メールで送ってください」と言われてしまった。市五郎は落胆しつつ通話を終え、ため息を吐きながら結城へメールを送信した。

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