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第11話 恋する男2

   午後七時前、市五郎はT国際ホテルの華やかなロビーを抜け、そわそわした面持ちでエレベーターに乗り三階へ向かっていた。  久しぶりに袖を通したスーツに息が詰まるような苦しさを覚える。ドアの開いた先には朱色の絨毯とさざなみのような笑い声。大きな生け花が飾ってある入口。出版記念パーティーと銘打った会場にはすでに、イブニングドレスで着飾った婦人やスーツ姿の男性が数名で輪を作り談笑していた。  こういった場に招待されたのは初めてだったが、サラリーマン時代の経験はある。いろんな催しに、あの頃も仕事の一環として参加していたが、こんなに息苦しさは感じなかった。やはり久しぶりだからなのだろう。  大きなシャンデリアがぶら下がる金色の天井を見上げ、足元に目を落とす。先の尖ったイタリア製の革靴しかり、全部捨ててしまおうと思っていたスーツも一着だけ残しておいて良かった。そうでなければ慌てて紳士服売り場に走るところだ。肩の窮屈さが若干気にもなるが、体型が変化したわけではなく、いつも着物や浴衣やシャツ一枚の緩い恰好ばかりで慣れてしまったからなのだろう。と静かにため息をついた。  なぜ市五郎がこんなところにいるかというと、以前、市五郎の担当編集者だった森から招待を受けたからだった。  本来、人見知りである市五郎はこういう席に出るのをできるだけ避けていた。しかし、新連載の企画を知った森から「こういうパーティーは出版社が主催する。もちろんお祝いの場なのだけど、人脈づくりの場として招待するものでもあるんだよ。高山さんの今後の為にも是非参加した方がいい」と説得され、さらに「結城も勉強の為に参加させるからおいでよ」と付け加えられたのだ。執筆中の為、すっかり結城ロスである市五郎にとってまたとないチャンス。ついうっかり、出席しますと返事をしてしまったのだ。  結城さんはどこにいるのだろう。  人混みの中、先ず森を発見する。その陰に、結城を見つけた。  場にはあまり似つかわしいとは言い難い、まるで成人式にでも来たかのようなやけに若い男性と名刺交換をしている。おそらく彼も新人作家なのだろう。忙しそうだ。今は話しかけることはできまい。  年が近いからだろう、結城もリラックスした表情で男性と話している。その姿を眺めながら、目立たぬよう壁際で立っていると、ボーイがトレーを差し出した。 「いかがですか?」   「ありがとう。これはノンアルコールカクテルですか?」 「ノンアルコールはこちらになります」  ボーイが細長いシャンパングラスに手のひらを向ける。鮮やかな淡い桜色。繊細な泡立ちがゆっくりと昇っていく。美味しそうだ。 「いただくよ」  会釈して立ち去るボーイから、結城へ目を向ける。相変わらず名刺交換で忙しそうだ。相手が有名な書き手なのかすら市五郎には判別できない。ただ他者に向けられる可愛らしくて温かな微笑みを見るにつけどんどん気持ちが落ちていくのを感じていた。  結城さんは編集者なのだから独り占めなどできない。そんなことは分かっていた。私の専属ではないのだ。私とふたりで居た時のように、私だけを見て、私の言葉に微笑み、時折はにかんだような笑みを見せてくれたのは、あの家に私しかいなかったからだ。    あの特別だと感じた言葉だって……。 「編集者なのだから、作家には誰にでも言う。ただの社交辞令だろうに」  わざわざ言葉にして、市五郎はグラスをグイッと傾けた。  そう、社交辞令だと分かっていたはずだ。なのにいつの間にか市五郎はふたりの目標のように胸に刻み込んでしまっていた。夢見るような年ではないのに、いつの間にか。  そんな自分が気恥ずかしく、酒は一滴も受け付けない体質だが、次はアルコールを飲もうかと考える。いい年をしてやけ酒とはみっともない。どうせ酔っぱらう前にトイレで吐くのがオチだ。  現実をまざまざと見せつけられ、市五郎は来なければ良かったと己の浅はかさを呪った。家から出なければ、こんな惨めな気持ちにならずに済んだろうに。  結城さんはまだ私に気付いていない。今のうちに帰ってしまおうか……。 「乾杯っ!」  周りが一斉にグラスを掲げる。市五郎が考え込んでいるうちに、開会の挨拶に続き、出版社の挨拶や著者の挨拶も終わってしまっていたようだ。結城の姿も先ほどの場所から消えている。 「やぁ、高山さん。いらしてたんですね」  ポンと肩を叩かれ振り返ると森だった。だが結城の姿はない。仏頂面をなんとか取り繕い、口角を引き上げる。 「どうも。お邪魔しています」 「どうです? 人脈作りの方は」 「はぁ、まぁ……ぼちぼち」  小学生ではないのだから、自分から輪に入らなくてはいけないのだろう。頭では分かっていても気力は一ミリも残っていない。 「染之屋先生には挨拶したかい? ミステリー色の強いバディものBLを書かれている作家さんでね。男性同士、話しやすいんじゃないかな?」 「あの、すみません。人酔いしてしまったようで……少し、外の空気を吸ってきます」 「ああ、そうなの? 大丈夫?」  「はい。ちょっと失礼します」  会場を抜け一階へ下りる。広いロビーのソファに腰を下ろすと市五郎は重いため息を吐いた。  やはり無理は禁物だ。世捨て人は世捨て人として立場をわきまえないといけない。かといって、黙って帰るのはマナー違反だろうし……。  五分ほどウダウダ考え、市五郎は重い腰を上げた。最低でも森には帰る旨を告げなければいけない。市五郎の狭い世界で、一番礼儀をはらわなければならない相手だ。

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