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第12話 他人のような親子
三階に着きエレベーターを降りると、会場前の通路で結城を発見した。何をするでもなく立ちすくんでいる。結城の横顔は、何かに集中しており、市五郎にはまったく気付いていなかった。視線は一点に向けられている。その表情は儚く健気で、まるで叶わぬ恋でもしているように市五郎には見えた。
何を見ているのだろう?
市五郎が結城の視線をたどると、男性トイレから和装の中年男性が出てきた。ボディガードのような体格のいいスーツ姿の男達を従えている。いかにも気難しそうで威圧感のある風貌をしていた。
きっと大物の作家なのだろう。最初の挨拶の時に前で話していたかもしれない。考え事をしていた市五郎にはなにも記憶にないが。
こちらに向かってくる男性。結城は一気にソワソワした様子になった。はにかむように視線を落としながら、チラチラと上目遣いで男性を見る。出待ちをするファンのようだ。中年男性との距離が徐々に近づいていく。
どうするつもりなのだろうと、市五郎が固唾を飲んで見守っていると、結城は声を出して挨拶するでもなく、慌てた様子でガバッと深くお辞儀をした。大仰な仕草だったが、中年男性は結城の前で足を止めることも、視線を送ることもなく会場へ入っていってしまった。
存在に全く気付いていないのか、気付いていたとしてもたかが編集者の若造に対応するのがバカバカしいと思っているのか。
可哀相に。市五郎は結城の後ろ姿に胸を痛めた。尻尾をくったりと落とした犬のような背中にかける言葉も見つからない。
さっきまではパーティ会場に相応しく、背筋をピンと伸ばして皆に挨拶をしていたのに。
結城の落胆した背中を見守っていると、結城が振り返った。バチッと目が合ってしまう。「あっ」と驚いた結城の表情はたちまち眉尻を下げ、バツの悪そうな表情になった。その顔を隠すように指先で眼鏡を押し上げ、市五郎へ軽く会釈する。
「失礼しました。高山さんもいらしてたんですね」
「あ、はい。その……森さんに、その、少しは他の作家さんと会ったほうがいいと言われたので……」
ごにょごにょと言い訳のように説明する市五郎に、結城は優しく微笑んだが、やはり表情に覇気がない。
「そうだったんですね。僕も上から同じことを言われました。スーツ姿も、とってもお似合いですね」
「あ、ありがとうございます。サラリーマン時代の遺物ですが、間に合って良かったです。結城さんも、その、とても素敵でしたよ? キリッとしていらした」
「ありがとうございます。……でも、変なとこ見せてしまいましたね」
困ったようにはにかみ、眼鏡の奥から上目遣いで市五郎を見た。弱々しい仕草に、市五郎の喉がグッと鳴る。
「……結城さん、少しだけパーティーを抜け出しませんか? ちょっとくらいなら森さんに叱られないと思いますし」
市五郎は静かな口調で結城を誘った。結城は少し戸惑うように視線を落としたが、市五郎へ目を向け「そうですね」と微笑んだ。
ふたりでエレベーターに乗り、一階へ降りる。さきほど外へ出た時に、コーヒーショップがあったのを思い出し、結城へ提案してみた。
「一階に喫茶店がありますので、そこでメロンソーダでも飲みましょう」
メロンソーダと聞いて、ふっと結城の頬が緩む。
「いいですね。行きましょう」
レトロな造りの喫茶店は、テーブルも椅子も飴色。照明もランプのような色合いのオレンジ色で市五郎は一目で気に入った。
ここなら落ち着いているし、話もしやすいだろう。
「私はメロンソーダですが、結城さんはどうされます? あ、ホットケーキもありますよ? バニラアイス付きです」
「じゃあ、それにします。実は挨拶回りばかりで食事できなかったんですよ」
注文を済ませ、ウェイターが去る。一瞬生まれた沈黙。無理をして微笑みを作ろうとしている結城へ市五郎はそっと問いかけた。
「さっきの男性は……、あ、話したくなければ大丈夫です」
結城は触れられたくないだろうという思いと、あの男性と結城がどういう関係なのか知りたいという葛藤がせめぎ合う。
「さっき……」
口を開いた結城の言葉が止まり、不安げな瞳があてもなく、テーブルの上を彷徨う。
しばしの沈黙が流れ、結城は言葉を続けた。
「実はあの人……僕の父親なんです」
「へっ? おとう、さま?」
まったく予想していなかった単語に市五郎が面食らう。
結城はますますバツが悪そうに首を竦めた。
「父といっても、ご覧の通りで。僕のことなんて、いないも同然で。気にも留めてくれないんですが……」
父親が息子をあのように無視することなど、あり得るのだろうか?
混乱した頭で市五郎が考えていると、結城が小さな声で続けた。
「昔からなんです。父は小説のことしか頭にない人だから」
「……そうなんですね。少し、いや、かなり、変わった方……と言ってしまってすみません。小説家だけではないでしょうが、一定数いますよね。没頭しすぎて周りが見えなくなるというか……」
これがフォローになっているのか? と思いつつ当たり障りのない返しをする。
「父のことが知りたくて、編集者になったんですが……」
寂しげに目を伏せる。
父のことが知りたくてというより、同じ世界に身を投じることで父親に振り向いて欲しかったのだろう。健気な結城に市五郎の胸はしくしく痛んだ。
父親が父親としての役割を果たしていなくても、子供というものは親を純粋に求める。それなのに、あの男は……目の前で頭を下げた息子に一瞥もくれなかった。
市五郎には到底信じられない。
「あの、結城さんだと気付かなかった……という可能性はありませんか?」
それもおかしな話だと思うが、落胆している結城を少しでも元気づけたい。
市五郎の言葉に、結城は静かに首を横に振った。
「一緒に住んでいた頃も言葉を交わしたこともないんです。父にとって、僕は存在しないも同然なんです」
「そんな……」
「変ですよね。普通じゃない。でも、それがうちなんです。僕にも文才があれば、あるいは気にかけてくれたのかもしれない。でも、残念ながら才能がなくて」
結城の目に哀しげな影が落ちる。飴色のテーブルに所在無さげに置かれた白い手を、市五郎は上から重ねるように掴んだ。咄嗟の行動だった。結城がそのまま消えてなくなりそうで引き留めずにいられなかった。
手の中で、白い指先がピクンと動く。
「結城さん」
市五郎の呼びかけに結城の視線がそっと持ち上がり、不安げに市五郎へ向けられた。
「わたしはあなたがいてくれるから、長編に挑戦しようと取り組んでいます。全て、あなたのおかげです」
「僕……が?」
「そうです。あなたの言葉が私に勇気を与えてくれた。あなたの微笑みが私を駆り立ててくれた。自分の限界を自分で狭めていた私を結城さんが掬い上げてくれたんです。もちろん、挑戦が成功するかどうかは私の努力次第ですが、挑戦できるのは全て、あなたのおかげなんです」
わずかに結城の表情に光が射すが、またすぐに目を伏せてしまう。
「いや、僕なんて……でも、ありがとうございます」
俯いたまま微笑む結城の手を、市五郎は強く握った。その握力に結城の体が竦む。こちらを見ない結城に市五郎がそっと名前を呼んだ。
「結城さん」
そろりと結城の視線が上がる。
怯えさせてしまっただろうか?
市五郎は安心させたくて微笑み、さらに結城の手を握る手に力を込めた。
「怖がらないでください。私はあなたを決して傷つけたりしない。あなたは大事な人です」
どうか伝わってほしいと市五郎は強く思った。
「私はあなたに会えてよかったと心から思っています。あなたでなければ、今の私はなかった」
市五郎の言葉を聞きながら、眼鏡の奥の瞳がキラキラと潤み始める。
「高山さん……」
市五郎の手の中で、結城の細い手にキュッと力が入った。
「あなたが私の家で可愛らしく微笑んでくれたのが、とても嬉しかった。あなたに悲しい顔はさせたくない。どうか私のためにも微笑んでいてください」
結城の唇が、堪えるようにクッと小さくすぼまる。
「私にとって、あなたは太陽みたいな存在なんです」
結城の白い頬に雫がポロポロと零れ落ちた。ギュッと目を閉じた結城は、震えながら俯き、何度も小さく頷いた。ぽたぽたと飴色のテーブルに弾ける涙。
きっとメガネにも涙の水たまりができているだろう。
市五郎は結城の手を握ったまま、もう片方の腕を伸ばし結城の頭をポンポンと撫でた。料理を持ってきたウェイターが少し離れたところでオロオロしている。
「……結城さん、ホットケーキがやってきたようですよ」
グスッと鼻を啜りあげ、顔を上げた結城が泣きながら「はい」と微笑んだ。
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