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第13話 募る恋心
「はい。はい。あ、そうですか。では、午前中にお伺いします……」
携帯を耳に当てたままペコペコと頭を下げ、電話を切った。
電話の相手は結城だった。ついにシリーズの一話目を完成させたのだ。要件は、本日中に原稿の持ち込みに行ってもよいかの確認だ。
事前に相手の都合を確認するために電話をしたのは初めてだった。森の時は、散歩の途中が常だったし、不在だったなら、誰かしらが伝言をしてくれ、森から連絡が入ってきていた。
電話は緊張する。相手の様子が分からないからだ。しかし結城の声は市五郎の訪問を喜んでいるように聞こえた。
原稿の持ち込みに、こんなに胃がキリキリするのも初めてかもしれない……。
市五郎は胃腸薬を飲み、シャワーで軽く汗を流して白シャツを羽織った。黒のスラックスにベルトを通す。最後にカンカン帽を被り家を出た。
「今日のお土産は何にしようかな……」
結城の顔を思い浮かべながら考える。
今までは自分が食べたいものをチョイスしていた。ケーキ屋で森のことを考えたなど一度も無い。
「こんにちは」
カンカン帽を取り、頭を下げる。
二週間ぶりの結城がそこにいた。デスクでパソコンに向かっていたが、市五郎の声に振り向くと微笑んだ。眩しい。その微笑みに市五郎の喜びと緊張が高まる。
結城はすぐに立ち上がり近づいてきた。
「わざわざありがとうございます。この前はその、ありがとうございました」
後半、少し照れたように小さな声で言うと、結城は目を伏せたまま丁寧に頭を下げた。視線を合わせるのが気恥ずかしいのか、「こちらへどうぞ」と応接用のソファ席へ先を歩いていく。
パーティションで仕切った場所へ到着すると、結城は気を取り直したように、「どうぞ座ってください」と笑顔で手のひらを見せた。
白くて柔らかそうな手のひらだと、一瞬、見入ってしまう。
あの華奢な手をずっと握っていたのだと思い返し、涙に濡れた結城の微笑みと、今、元気そうに笑顔を見せる結城を重ね合わせ、なんとも言えない気持ちになる。
あの時抱きしめなかったのは、公共の場だったからだ。でも市五郎は確かに心の距離が近づいたような気持ちにもなった。しかし今はまた、編集者と書き手の関係に戻っている。それがどうしようもなく寂しかった。
「……はい。失礼します。あ、これ、お土産です。夏のフルーツタルトです。三時のおやつにでも食べて下さい」
ボーとしていたのを誤魔化すように、白い箱を手渡した。
何を期待しているのか。結城さんが元気でいてくれるなら、それでいいではないか。
「いつもすみません。お気遣いなさらないで下さいね。原稿をお持ちいただけるだけで十分なので。でも、ありがとうございます。おやつにいただきますね」
礼を言う結城に、市五郎は慌てて説明した。
「私は甘い物が好きなのです。酒は飲めません。だから、スイーツを買うのは趣味みたいなもので、なので、気にしないで下さい」
「そうなんですか。コロネも美味しかったです。高山さんは舌が肥えてらっしゃるから今度持って行くお土産が大変だな」
照れたように小さく笑って冗談を言う。淑しとやかで上品な笑みに、市五郎は思わず口走っていた。
「結城さんこそお気遣いなく。あなたが来てくれるだけで、私こそ十分です」
言葉にしてから我に返ったが、結城は少し照れくさそうにはにかんでいる。出版記念パーティーでのことを思い出したのかもしれない。悪い反応ではないことに、ホッと胸を撫でおろす。そんな市五郎を眼鏡の奥からチラチラと見上げ、結城は遠慮がちな咳払いをして、話を進めた。
「あの、ところで、お持ちいただけた原稿っていうのは、例の?」
「あ、はい。こちらにデータは入っていますが、今日はプリントアウトもしてきました。シリーズの一話目になります。プロットに記載しましたが、前回目を通していただいたアレをプロローグにもってきて、時間軸を戻し、本編スタート。再度、プロローグの場面に戻る形にしました」
「拝見しますね」
原稿を受け取り、さっそく読み始める。結城の表情が徐々に明るくなっていく。興味を引いているらしい。全部読み終え最後に「ウンウン」と頷き、結城は満足そうに「良いですね!」と顔を上げた。
市五郎はずっと固まっていた肩を下ろしながら息を吐いた。結城の言葉を繰り返す。
「……いいですか?」
「ええ、このまま進めて行きましょう」
「ありがとうございます。あの、ここをこうした方がいいとか、ありましたら、またメールでもいいので……教えて下さい」
両手を膝頭で揃え、深々と頭を下げる。
私が長編を、しかもシリーズで書けるかもしれないなんて、やはり現実味がない。
「はい。またゆっくり読ませてもらいます。なにかあったらご連絡いたします」
「はい。よろしくお願いします」
市五郎は頭を上げながら、もうこれで用事がなくなってしまった。と落胆していた。
いや、落胆するところじゃない。逆じゃないか。と思い直す。
「……また、書けたら、持ってきます」
結城は「はい。お願いします!」と笑顔で応えた。
そうなのだ。結城さんとはこれから、ここから始まるのだ。
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