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第19話 雷鳴
一瞬の罪悪感と共に、市五郎の目が開いた。
色褪せた天井をぼんやり見つめる。
「は~……」
意識が覚醒した途端に落ち込むのが、最近では市五郎の日課になっている。言わずもがな、結城の夢を見てしまうからだ。初めてその夢を見た時、信じられないことに市五郎は夢精をしてしまった。成人男性でも溜まっているとそういう現象が起こりうる。しかし、市五郎は今年四十八歳だ。すっかり枯れ果ててしまったと本人は思っていたので、かなりの衝撃だった。
例の長編は順調に書き上げつつある。しかし、それを結城へ伝えられないでいる。どういう顔をしたらいいのか分からないからだ。連絡すればきっと、スイーツを土産に会いにくるだろう。淫靡な夢を見たあとでは、まともに目を合わせられる自信がない。それでも、次の締め切りの前には、必ず原稿を渡さなければならない。
キーボードを叩きながら考える。
ここで二人になってしまうより、出版社へ持ち込んだ方がいいのかもしれない。そうだ。いっそのこと、結城が留守の時を見計らって託けてもいい。
少しだけ気が楽になり、市五郎はタバコを手に庭へ降りた。
今年も異常気象だ。今年もというのなら、異常でもなんでもないのかもしれないが、もう十月だというのに恐ろしく暑い。きっと三十度近くあるのだろう。一雨あれば打ち水効果で涼しくなるだろうに。市五郎は蒸し暑さに耐え切れず、一本タバコを吸い終わるとすぐに書斎へ逃げ込んだ。
戻ってみると机の上に置いてある携帯が点滅している。サイレントにしてあったから気付かなかったが、着信があったらしい。相手は例の長編で扉絵と挿絵を担当しているイラストレーターだった。
なんだ? 電話など初めてだ。
いつも結城伝いにイラストチェックを行っているため、イラストレーターと言葉を交わしたのは初回の顔合わせの時だけだった。
市五郎は予想外の相手からのコンタクトを不思議に思う。
電話をかけ直すべきなんだろうが……。
躊躇していると、今度はメールが届く。留守番電話サービスからだ。
もしかして、要件が吹き込んであるのかもしれない。それなら電話をかける必要もない?
社交的とは対極にいる市五郎はホッと胸をなでおろし、留守電サービスの番号をタップした。
「オアズカリシテイル アタラシイメッセージハ イッケンデス……」
機械アナウンスの後、早口でまくし立てる明るい声。
「……こんにちは。お世話になってます! えっと、至急お知らせしとかないといけないことが……さっき、と、ゆーか、昼? 結城さんと打ち合わせしてて、つい主人公のモデルは結城さんだって言っちゃったんです。ごめんなさい~~~! 要件はそれだけです! じゃ、また!」
な、なんだとっ?
「コノメッセージヲショウキョシマスカ? ショウキョスルバアイハ……」
市五郎は番号を押し、もう一度イラストレーターのお気楽なメッセージを聞いた。何度聞いても、内容は変わらない。しかも話す声が半笑いのようにも聞こえる。
こいつ……今度会ったら首を絞めてやる……
市五郎はメキメキ握り潰す勢いで携帯を握りながら、メッセージを消去した。そして呆然として畳に横たわった。もう魂も抜けたような気持ちだった。
結城さんに私の妄想がバレてしまった……。どう思ったのだろう? どんな表情をしたのだろう? 忌々しい……メッセージを残すなら、そこまで教えてくれたらいいのに。
かつて大いに感謝したイラストレーターへの恨みが募る。
「ああ……ダメだ……もう……ダメだ……」
夢精した時よりさらに落ち込み、右腕を額に乗せる。目を閉じていると、小さくゴロゴロと雷の音が聞こえてきた。風の音もする。まるで今の市五郎の心情を現わしているようではないか。あの蒸し暑さは夕立の前触れだったのだろう。
ポツポツと庭で大粒の雨が落ちる音がしたかと思うと、すぐにバケツを引っくり返したような激しく叩きつける雨音が市五郎を包んだ。
うっすら目を開けると部屋の中は真っ暗だった。まだ三時過ぎなのに、もう日暮れのように暗い。
ピカッと雪見障子が白く光った。二秒程でガラガラガラと鳴る雷。近づいてきている。
停電になったら厄介だと、市五郎は重い体を起こし、電化製品やパソコンの電源コードを抜いた。落雷すれば、電源コードがショートして電化製品が壊れてしまう恐れがある。特にパソコンはイチコロだ。
「はぁ……」
重い溜息を吐いた時だった。微かに呼び鈴が鳴る。
誰だ? こんな荒れた天気に訪ねてくるモノ好きは。魂の抜けた頭で考えてハッとした。この家の呼び鈴を押すのは一人しかいない。結城だけだ。
市五郎は廊下をバタバタと駆け、玄関のガラス越しのシルエットを見て息を飲んだ。慌てて玄関を開けると、折り畳み傘をなぜか胸の前に抱え、頭からずぶ濡れの結城が立っていた。
「あ……ゆ、結城さん……」
「こんにちは」
眉を下げ、情けない顔の結城が小さく頭を下げる。
「ちょ、ちょっと待ってください。あ、中入って」
結城に声を掛け、市五郎は風呂場へ走った。バスタオルと小さなタオルを掴み、玄関へ戻る。濡れ鼠のような結城へバスタオルを渡した。それから小さなタオルをかまちに敷く。
「風邪を引いたら大変だ。服を脱いで体を拭いてください。あ、ここに足を乗せて。靴下もグッショリでしょ? 脱いでください」
「すみません、ありがとうございます」
結城はタオルを受け取ると首に挟み、右手をその挟んだタオルで拭き、タオルを首に掛け、慎重にスーツの中に入れていた鞄を出した。
大事そうにタオルで鞄を拭っているが、ほとんど濡れていない。結城はどこもかしこもびしょ濡れなのに傘を抱えていた前面だけは濡れていなかった。
市五郎は冷えて血の気を失っている結城の顔へ手にしたタオルを持っていきかけ、グッとタオルを握りしめた。暖めてやりたい衝動に耐える。
「ほんと、急に降ってきてしまって、焦りました。高山さんがお家にいて下さって助かりました」
結城はタオルで全身の水気を吸い取り、靴を脱いで、脱ぎにくそうに靴下を片足ずつ脱ぐと、タオルへ足を乗せた。市五郎はすかさず屈んでもう一枚の小さなタオルを手に、結城の濡れた足を拭いた。親指と人差し指の間にタオルを入れて丁寧に水気を取る。
「えっ! あっ、あ、た、高山さん!? 自分で拭きますっ」
「髪もちゃんと拭いた方がいいです」
「……はい」
頭上でやけに小さな返事が聞こえた。どう思われているのだろうと内心ハラハラした。だが、今唯一触れることができるのは、ここくらいだと思ったのだ。
市五郎はせっせと結城の両足の指の間の水気を取り満足し、風呂場からカゴを持ってくる。結城は玄関に立ちすくんだままだった。頭から被ったタオルの両端を両手でギュッと握っている。タオルで影になった結城の表情は見えない。
「風呂を沸かすので、ここに濡れた服を入れて、書斎で休んでいて下さい。着替えを出しますので」
「そんな、タオルを貸してもらえただけで。ほんと、ほんと大丈夫なので」
「大丈夫じゃありませんよ。夏じゃないのですから。濡れた服は体温を奪う。年上の言うことはきくものです」
顔をあげると、結城の顔は真っ赤に熟れていた。
「……はい」
またもや頼りなく弱々しい返事。「失礼します」と言って濡れた靴下や上着をカゴの中へ入れていく。それを確認して、タンスが置いてある部屋へ入り、普段使っている部屋着を結城へ持っていった。
玄関でそろそろと服を脱ぐ結城の姿はハッキリ言って心臓に悪かったが、ずぶ濡れの服を着ていてはいろんな意味でマズイ。
結城はスラックスを脱いで青いネクタイとシャツにパンツ姿だった。匂い立つ色香に市五郎は目眩がしそうだった。前こそ濡れていないが、肩や腕、背中も白いシャツが肌に張り付いている。
「……シャツまで濡れているじゃないですか。早く、これを」
市五郎は目をそらし、服を渡した。
打ち付けられる暴風雨は、ますます激しくなっている。結城の肩越しに玄関へ目を向けた途端、玄関が真っ白に光った。
「うっ」
その瞬間、天界から激しい炸裂音が轟いた。結城が小さく悲鳴を上げ、体を竦める。耳を押さえギュッと目を瞑る姿に何かが弾け飛び、市五郎はその体を強く抱きしめ、己の背中を玄関へ向けた。その瞬間、ガーンともドーンとも言えない破裂音が頭上で響いた。爆弾が落ちたような衝撃が何度も続く。結城はその度にビクッと体を震わせた。
案の定、廊下の電気が消えた。停電だ。
相当怖いのだろう。結城はガクガク震えながら市五郎にしがみついていた。薄暗い廊下。雷が遠のくまで、市五郎は結城を抱きしめ続けた。
しばらくすると、雨足が遠ざかり、雷の音も小さくなっていく。結城は目を開け、市五郎の腕の中で視線だけを動かし見上げた。おどおどと揺れる瞳はたいそう儚く、美しい。守ってあげたい欲が心の底から込み上げてくる。
「…………」
薄暗い闇の中で見つめ合う。結城は何も言わず気まずそうに視線を外した。青かった頬がゆっくりと火照り色付いていく。小さな心音がトクントクンと聞こえてくる錯覚に市五郎は陥った。
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