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第22話 訪問の理由

 激しかった雨が上がり、風呂へ入った結城は、会社に直帰の電話連絡を入れた。市五郎は二人分の蕎麦を湯がき、鴨南蛮を作った。 「食べましょう」  書斎の机に向き合い、静かに蕎麦を食べる。  冷えきっていた結城の頬は桃色になっていた。ずっと握っていた眼鏡ももういつも通りの定位置に戻っている。  つゆを飲み、「ほう」と一息ついた結城の手がピタリと止まる。そのまま蕎麦を見つめながらボソッと問うた。 「あの、僕たちこれから付き合う……という、ことになるんでしょうか」  不思議な問いかけだと思いつつ、市五郎は真剣に応えた。 「私はあなたとお付き合いしたいです。結城さんさえ良ければ、付き合って欲しいと思っています」  俯いたままの結城だったが、頬はさっきよりも赤みを増したようだった。 「僕は、高山さんのことを好きなんだと思います。いつものおやつも楽しい時間でしたし。さっきの……たくさんの言葉も、とても……その、素敵でした」 「……触るのはダメですか?」  結城がギュッと身を竦める。流れる沈黙。止まった空気にいたたまれなくなり、市五郎が限界を感じた時、また小さな声がした。 「ダメでは、ないです。少し、怖いけど」  あの彼とは別人としか思えない。結城にそっくりな妖艶な男。今の結城に彼の要素は微塵もないのだ。 「……結城さんは、あ、答えにくければ答えないで結構です。……男性とお付き合いしたことはありますか?」 「……ないです」  逃げるように視線を逸らせ、とても不安げな曇った表情をする。  母からはぐれた小鹿のようだ。 「駅前のイタリアンレストランのお店、ご存知ですか?」  えっ、と顔を上げた結城は一変し、キョトンとしていた。  市五郎の質問が予想外だった。ということだけではなく、寝耳に水といった様子。さっきまでの照れや不安は消えていた。 「なぜそんなことを?」 「以前、一人で食事をしていて、結城さんを見たような気がしたのです。でもメガネは掛けていなかった。服装もまったく違っていたのですが、よく似ていたのですよ」 「僕は、行ったことないです。……メガネも絶対外さないですし」  そう言いながら、ぎこちない動きで眼鏡を確かめるように触っている。  さっき眼鏡を外した時もかなり動揺していた。  結城さんにとって、眼鏡は洋服と同じなのかもしれない。または社会人として振る舞うための一種のお守り。やはりあの時の彼は別人だったのか……にわかには信じられない。 「そうですか……じゃあ他人の空似だったんだ……」  市五郎の呟きにまた沈黙が流れた。  その沈黙を、心もとない声がそっと破った。 「……あの……高山さんは、もしかしたらその方を好きなのでは……」 「私が好きになったのは、家に初めて訪ねてくれて、私をずっと励ましてくれたあなたですよ」  結城はヒュッと息を吸い込み、首を竦めるとちょこんと頭を下げた。 「すみません。あの、変なことを言ってしまって。でも……ちょっと失礼します」  結城は断り箸を置くと、静かに立ち上がった。鞄の中から封筒を出す。結城が雨に濡らすまいと上着の中に入れ、抱え守っていたものだ。  封筒の中身は原稿だった。それを結城が市五郎へ向ける。次号の扉絵の原稿だ。手枷足枷をされている主人公。 「おお……、とても素敵ですね」  市五郎の感想に結城は落ち着かないようにそわそわと視線を泳がせ、言いにくそうに話した。 「その、モデルがいるそうです。それは僕らしいけど、僕としてはどうもそうは思えなくて。もしかしたら、さっきおっしゃっていたレストランの方なんじゃないかな……って」  市五郎はバツの悪い思いをしつつ正直に打ち明けた。今更、隠すのもおかしな話だと思ったからだ。 「あなたですよ。私はいつも、あなたのネクタイを外して、その肌に触れてみたいと妄想していました。いつもあなたの夢ばかりみていました。まるで中学生のようにです」  ぶわっと、一気に結城の白い肌が赤くなる。隠れるように顔を俯かせた結城に市五郎は続けた。 「あなたは本当に可愛らしい。そうやって戸惑う様子さえ、私を誘っているようです」  結城は返事に困り果てているようだった。市五郎はもっと困らせてみたいと思いつつ、そんな結城を眺めた。 「……実は、今日伺ったのは、高山さんに聞き……言っておきたいことがあって。主人公のモデルが僕だとして、……僕は、嫌じゃないですって……その、お伝えしたくて」 「え?」  思ってもみないセリフに市五郎が目を丸くする。結城はたどたどしくそれだけ言うと席へ戻った。市五郎と目も合わせず、取り繕うかのように鴨南蛮を口へ運ぶ。 「鴨南蛮。とても美味しいです」  バレた時は怒られるかもしれない。怒られるだけならまだいい。気持ち悪がられたらどうしようと思っていたのに、わざわざ許可をくれに来たというのか。あんなにも雷を怖がっていたのに、こんな雨の中わざわざ。  市五郎は結城の健気な気持ちに触れたような感動を覚え、蕎麦を黙々とすする結城の様子に愛しさをつのらせた。 「……良かったです。ありがとうございます」 「あの、……眼鏡……とった方がいいですか?」  相変わらず鴨南蛮を見つめたまま結城が質問する。 「……私と二人きりの時、鳴く時だけ見せてください」  結城の肩がビクッと揺れた。もう掬う蕎麦もなく、真っ赤になったままつゆだけの器を両手で持って飲み始めた。顔を隠したいのか、器を下ろす気配がない。  市五郎は箸を置き、結城の隣へ座った。動揺した結城は器のつゆを少し零してしまう。 「あっ……ごめんなさい」  こんな粗相をするなんて、仕事をしている時とはえらく違う。  市五郎はティッシュを抜き取り、零れたつゆを拭きながら言った。 「怖がらないで下さい。あなたを愛したいだけです」  そっと器をテーブルへ戻し、結城は申し訳なさそうに小さく頷いた。 「…………」  押し黙る結城の手を握り、立ち上がる。しかし、結城は俯いたまま立ち上がるのを躊躇ためらっているようだった。腿に置いた拳を、ギュッと握りしめている。いくら慣れていなくても、立ち上がれば今から始まる行為に同意したことになると分かっているらしい。

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