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第29話 もうひとりの結城真人 5
彼は飄々とした態度で簡単にその名前を口にした。
やはり、結城さんなのか。
市五郎の心境は自分でも判断できないほど複雑だった。
市五郎自身、確信を持っている。しかし、彼は市五郎の知る結城ではないのだ。別人。話せば話すほどその違いを感じる。市五郎はますます混乱する頭を整理しようと、慎重に言葉を発した。
「結城さんだけれど、結城さんではない。私には別人に見える。あなたは誰ですか?」
彼は指先の爪を、己の爪で擦り削っていた。その行いは特別な感情を表現したものではなく、ただ単純に形を整えているだけのものだった。
マイペースにも程がある。
「込み入った質問だね。誰と聞かれても結城真人だよ、としか言いようがないし。んー、さっき言ってた……双子? そういうのが一番近い答えかもね。双子は顔が同じでも、体は各々に与えられてる。だけど、俺たちはそうじゃない、だけ?」
結城を「あいつ」と呼び、「俺たち」と言う。本当の双子の兄弟のようだと市五郎は思った。
一つの体に、二つの心。結城さんの中に、別人格がある。多重人格……そういうことか。
にわかには信じ難いことだった。物語の世界ではよくモチーフに扱われているが、今までの人生で、そんな人間に出会ったことがない。話を聞いただけなら、単純に「信じられない」と笑っただろう。しかし市五郎は実際、彼らの違いを体感し確信してしまった。それでも信じられないと思う。
あの結城さんに別の人格があるなんて。なんの問題もないと思えるのに。極度の恥ずかしがり屋ではあるけれど……まさか……。
市五郎の脳裏にふと、出版記念パーティーでの一幕が過った。
実の息子の挨拶を平気で無視する冷淡な父親……。結城さんはあんなに父親に認められたいと思っているのに。そんな冷たい男が、登場人物の心の機微を描けるのだろうかと考えたことも思い出す。
あの時は結城さんの気落ちした様子に父親のことを尋ねることは憚られたが……もしかしてあの父親が原因になっているのかもしれない。大いにあり得る。あの父親が結城さんの幼少期に深いトラウマを植え付けたのかもしれない。そして結城さんは心を守るため、もう一人の人格を生み出した。それがこの、マナト。
「……では、結城さんではなく、あなたをマナトさんと呼べば、話がしやすいですか?」
マナトは片眉と口角を上げニヤリと微笑んだ。
「わかってんじゃん」
やけに嬉しそうだ。
「分かりました。頭を整理するために、マナトさんから聞いたお話をメモしたいと思いますが、いいですか?」
「なに? 自分の恋人をネタにすんの? って、もうしてるんだっけ」
ケラケラと笑い飛ばす。
別人格とはいえ、結城の顔で投げつけられる言葉に市五郎は唖然とした。
結城さんがそう感じているから、マナトは言葉にしたのだろうか? マナトは結城さんの代弁者なのだろうか?
ふたりで喜び共に頑張ろうと支えてくれた。モデルが自分でも嫌じゃないと、結城さんはあんなにも真剣に伝えてくれたじゃないか。
マナトの言葉を信じたくはないが、不安は広がるばかりだ。
「ネタ……そんな風に思われているのですか……」
マナトは涼しい表情で目を細めた。足を組み、膝に肘を突いて手のひらに顎を乗せる。悪びれる様子もない。
「一発当てたんでしょ? 何も知らないユウキを使って」
市五郎を見上げ、試すように挑発してくる。
マナトの言葉は残酷だった。攻撃的でもある。市五郎をわざと怒らせたいようにも感じられた。実際、マナトの口調も態度も仕草も、ことごとく市五郎のカンに障った。結城と真逆の位置にいると思えた。
マナトの挑発に乗ってはいけない。軽く深呼吸をして己を抑える。
「……誤解しないで欲しいです。私は結城さんを心から愛しいと思っています。その結城さんの中にマナトさんが存在するのなら、あなたの事も理解したい。ネタになりそうだ。などと、思ったことは一度もありません」
「なら、なんでメモまで?」
「頭が混乱しているからですよ。私の中には私しかいない。全部自分で整理しないといけないのです。そのためのメモです。あなたの言葉を正しく理解するために。そして、勿論、このことを他言することもありません」
「まぁ、信じるよ。裏切ったらあんたのかわいい結城さんがショックを受けるだけだ。ただ言っておくけど、ユウキの中に俺がいるんじゃない。俺たちは体を共有しているんだ」
自分の体でもある。と主張する別人格。
市五郎には特に多重人格についての知識はなかったが、結城と同等の立場を主張するマナトを珍しいのではないかと感じた。
昔読んだ本に、多重人格の症状のあるA氏には、別人格のB、C、D、Eがいて、それぞれ性格も違っていた。お喋りな人格もいれば、無口な人格もいる。ひたすら陽気な人格もいれば、怒りだけを抱えている人格も存在するとあった。しかしそこに、「私はAと肉体を共有している」と主張する人格はなかったように思う。「Aはあの人が苦手だから、その時は私が代わって相手するの」と、自分がどんな役割をもっているか説明する人格があったのも覚えている。ひたすら隠れている人格は表に出ることを嫌い、もっぱら陽気な人格や、お喋りな人格が他の人格の説明をしていた。名前もバラバラだったと記憶している。
市五郎がマナトに感じたのは、そのどれにも当てはまらない。自己顕示欲の強さだった。こんなにハッキリと物を言う人格ならば、間違いなく結城の助けをしてきたに違いないだろうに。
これがヒントなのだろうか。結城さんは自己顕示欲というものが一切ない。私を受け入れたのも、私の押しの強さに負けただけなのではないか? と思えるフシもあるし……。
「……そうなのですか……他にはいない? マナトさんと、結城さんだけ?」
「そうだよ。二人もいりゃ十分でしょ」
ケラケラと笑うマナト。
「いつ頃からマナトさんは存在するのでしょうか?」
マナトの表情が一変し、ムッとした。質問が気に障ったのだろう。
「はぁ? いつ頃? 言ったよね。ユウキの中にいるんじゃないって」
「最初から別人格として存在したと?」
「俺たちは生まれた時から同時に存在してるんだ。ただ枝分かれしただけに過ぎない」
「なるほど。体がひとつなだけで、双子と同じなんですね」
マナトが気分を害してしまっては話を聞けない。市五郎は共感の姿勢を示すため、まずマナトの主張を繰り返してみた。マナトはクルンと視線を天井へ向けた。考えるような沈黙の後、市五郎へ視線を向けた。
「うーん、まぁ、言ってみればそんな感じ?」
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