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第31話 もうひとりの結城真人 7
市五郎のことも、結城のことも、マナトだけが把握している。鍵はマナトが握っているのだ。話を聞き出すためには、付き合わなければなるまい。
大丈夫。口をつけたフリをして飲まなければいいのだ。
マナトの真似をしてグラスを取り、グラス同士を軽く触れ合わせた。
「初めての裏切りに」
マナトは面白がるような表情で言った。グラスをひょいと上げ喉を晒し、赤い液体を傾ける。
裏切り……どういう意味なのか。私がマナトと話すことが結城さんへ対しての裏切りになるのだろうか? それとも別の何かを指しているのか。
そのままグラスをテーブルへ置くわけにはいかず、市五郎はグラスを傾け、舐めるようにワインをほんの少し舐めた。口当たりもよく飲みやすい。しかし、アルコールに弱い人間に味は関係ない。血液に少量のアルコールが入っただけで、フワッと脳が揺れた気がした。
「では、食べながらでも、話を聞かせてください」
マナトは「いただきます」と言って肉を切りパクパクと口へ放り込んだ。食欲旺盛だ。その姿も結城とはかけ離れている。
「ワインと肉料理、他になにが好きですか?」
「セックス」
肉を口に運びながら、マナトは平然と答えた。そこに関しての恥じらいは皆無なのか。欲求に忠実で、結城と対極の位置に存在していると思える。
「肉食系?」
「いろんな意味で?」
頬を膨らませ、人を試すような表情でニヤリとする。
「面白いでしょ。いい題材だよねぇ。同じ体を共有する相反する存在」
「確かに興味深いです。でも、結城さんは大事な人なので。私は興味本位のためにあなたを探したわけではない」
「じゃあ、何しに来たの? 放っておいてあげなよ。大事なユウキのために」
「放っておけませんよ。どうして一つの体に二つの人格があるのか教えてください。結城さんになにがあったのですか?」
「俺たちはうまくやってるよ。っていうより『俺が』だけど。人は誰でもいろんな面を持ってるもんでしょ。秘密もね。俺たちはそれがちょっとはっきりと別れちゃっただけの話。俺たちの過去を探って何をしたいの?」
何がしたい……。
マナト的にはなんの問題もない。余計なお節介でしかないらしい。
「……枝分かれする前は一つだったのなら、また一つに戻ることは可能なのか……」
そう口に出してはみたものの、それが難しいことは分かっていた。
多重人格の治療とは人格を統合するものではない。どの人格を「主」として定めるかだけなのだ。その観点から見れば、結城が何も知らず、生活上の弊害が起きないようマナトが制御している状態だというのなら、結城には治療の必要などないのだろう。
考えこんでいると、マナトが「ふーん」と鼻で笑った。
「あなたが表に出ている時、他の男とデートしているのかと思うと複雑です」
陳腐だが、それも正直な気持ちだった。面白がるマナトを前に、市五郎は動揺を隠せない。
結城さんの身を案じるだけではない。恋人が他の誰かに抱かれているのを黙って受け入れろというのか。そもそも、問題があった時、その場に応じて入れ替わるのが多重人格なのではないか。私と付き合っていることで結城さんに負担を掛けているのだろうか? だからマナトが出てくるのか?
市五郎は膝の上で、拳をグッと握った。
「あまり気にすることはないよ。あんたも感じてるように俺はユウキじゃないから、顔かたちが似てる他人だと思ってりゃいい。ユウキだって何も知らないんだから。俺はちゃんとマナーを守る。体に負担をかけるようなムチャはしないし、もちろん傷つけることもしない」
「……わたしのせいで、結城さんは精神的にストレスを感じているのでしょうか?」
「あー、そういうこと? だったらなおのこと気にしないでいいよ。あんたと出会う、ずーっと前からなんだから。家庭環境だって話したでしょ。あんたは関係ないよ」
「今、問題がないのなら、どうしてマナトさんと入れ替わるのでしょうか? 何かキッカケがある?」
市五郎は縋るように視線を向けた。怖いのだ。しかし、マナトは市五郎に気を留める様子もなく、呆れ果てたように言った。
「あのね。どうして入れ替わるって発想になるかな? それって俺を否定してるよね。言ったでしょ共有だって。ほんっと、失礼だよなぁ~」
マナトはソファへ背中を預けワイングラスを拗ねた表情で見つめた。
マナトの言い方をすれば、「共有」なのだから、どちらが主になろうといいし、キッカケなど必要ない。使いたい時に、使いたい方が体を支配する。それの何が問題なの? と思っているようだ。
市五郎は必死に考えた。しかし、そう思っているのはマナトだけであり、結城にはあずかり知らぬことだ。
「申し訳ない。気をつけるよ。でも、君は日常生活を送る時、結城さんへ体を明け渡している。あなたが外に出てくる理由は?」
「そんな挑発的なことを言っていいの? 俺に出てくる理由を聞くのは、あんたがなんで生きてるの? と聞かれているのと同じことだよ。ユウキが日常生活を嫌がれば俺が担う。それだけだよ」
話しにならない。言葉尻を捉えて揚げ足とりばかりだと感じる。市五郎が何を言ったとしてもマナトは気に食わないのだろう。
「いなくなってもいいの? 大事な結城さん」
「……そんなことにはならない」
「どうして?」
「わたしが結城さんを愛しているからです」
「すごい自信」
「結城さんが深い傷を負っているのなら、わたしはそれごと結城さんを包みたい。あなたが結城さんをずっと守ってきたのも理解出来る。わたしはあなたに感謝しています」
マナトは視線を反らし「たいしたことではない」という表情でワインを飲んでいた。
市五郎の真っすぐな言葉をまともにとりあっていないようだ。
マナトは「ふぅ」とため息を落とし、スクッと立ち上がった。と思うと、市五郎を見下ろす。無言のマナトを市五郎も見上げる。
流れる沈黙。
市五郎が不安を感じ始めた時だった。マナトはソファに膝を突き、跨ぐように市五郎の太ももに乗ってきた。自分のワイングラスを市五郎の口へと運び傾ける。
市五郎は目を丸くしマナトを見た。グラスが唇に当たり顔を背けると、真紅のワインが白いシャツに零れ落ちた。肌に張り付くシャツと、甘い香り。
市五郎はワイングラスを持つマナトの手首を掴んだ。
結城でもあるマナトを突き飛ばすわけにはいかない。
「なんのつもりですか?」
「したいんじゃないの?」
「なにを?」
「だから、そういうコト」
ポツリと囁くように呟き、顔を寄せてくる。その表情も唇も魅惑的に決まっているのだが、市五郎はマナトの肩を掴み、唇が触れないようにした。
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