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第44話 雪の町へ 4
「その人は今どこに? 会って話は聞けますか?」
「今はお屋敷の近くでスナック経営をしているそうです」
「スナック?」
「ええ、重さんも何度か通ったことのあるお店みたいですよ。メイドを辞めてスナック経営を始めたとか」
「……あ……」
カレーを食べた喫茶店の、化粧の濃いママを思い出した。
あのママが屋敷で働いていたとして、解雇されたあとにスナックを始められるだろうか? 初期費用だっている。でも愛人だったら? 手切れ金としていくらかのまとまったお金を受け取ったのならスナックを開店させることも可能だ。
「美奈代さん」
「はい」
「他のスタッフとは別に辞めてスナックを始めた女性が、結城……結月総一郎の愛人だったのではありませんか?」
美奈代は明らかに動揺した表情になった。
「いえ、それは……私、知りません」
「噂でも構いません。当時、そういう噂があったのではありませんか?」
あの喫茶店のママは、確かに「どの部屋から観ても庭がキレイだった」と言っていた。それだけ、自由に屋敷内を動けていたということになる。一人だけ一斉解雇を免れているのも、動かぬ証拠ではないか。
「本当に知らないですから」
美奈代はこちらが意外に思うほど拒否反応を見せた。
スナックのママの話をする前から態度が挙動不審だったのも、この質問をされたくなかったからなのかもしれない。話そうか迷ったという事は、当時、噂を耳にしていたという証拠とも言える。美奈代の反応こそが答えなのだ。
「……分かりました。お手数をおかけしました」
引き下がった市五郎に、美奈代は明らかにホッとした表情になった。市五郎は伝票を掴み立ち上がると、美奈代へ深々と頭を下げた。
「では私はこれで東京へ戻ります。本当にありがとうございました」
────マナトに会いに行かなくてはならない。
高山からの帰り電車の中、市五郎は集めた情報を整理した。
小学校の友達を呼んだ誕生日会。突然追い出された客人。その翌日の急な転校。解雇された若い使用人たち。転校後、元気をなくしていった幼い結城。父親の不倫現場の目撃。不倫相手は使用人だったという噂。目撃した結城が、なぜか母親から厳しく叱られることになる。
屋敷を去る際に手切れ金を手に入れ、後に店を出したのは、九分九厘、エデンのママだろう。
『家庭環境だよ』
マナトの言葉が蘇る。
世間の一般家庭とはかなり違う。異質な家庭環境で育った結城を思い描くだけで陰鬱とした気分になる。
閉ざされた屋敷の中でいったいなにがあったのか。金や地位を持った父親が外に愛人を囲うのは珍しい話ではない。しかしひとつ屋根の下に愛人がいたのなら、また話は大きく変わってくる。
正常な夫婦関係はあったのだろうか。結城さんは、子ども心に両親の不和を感じていたのだろうか。不倫現場を目撃し、さらに母親から責められたのが本当ならば、結城さんはそのことでなんらかのトラウマを負い、自身を守るため、別の人格を作ったのだろうと推察できる。
姉弟のように慕い、悩みを相談していた美奈代まで取り上げられ、結城さんの心はますます追い詰められていったのかもしれない。
しかし、この旅で分かったのはあくまで状況的な部分だけ。
思えば結城さんは、無視されていたにも関わらず結月総一郎を慕っていた。初めは父親との確執が原因だと考えたが、母親の方だったのか。確かに、市五郎は結城から母親の存在を感じたことがない。しかし、まだキーとなる部分は曖昧だ。母親との確執がどれほどのものだったのか、確かめる術はない。人格分裂の真相である深い部分を探るには、当の本人である母親か、マナトに聞くしか手がないのだが、母親に探りをいれるわけにもいかない。そも母親が結城さんにとってのトラウマなら、彼女と私が接点をもつこと自体が結城さんの傷口を広げることになってしまう恐れがある。
……手詰まりか。
過去はもう取り返しがつかない。時間を巻き戻すこともできない。それならば原因を追究せず、今の結城さんを受け入れる方がいいのだろうか。マナトが結城を守っていることは理解できたような気がした。
しかし……。
疲労困憊した結城が家を訪ねてきた時のことを、市五郎は思い出した。
自身の体を支えることさえできないあんな酷い状態で、それでも私に会いに来てくれた。
「やっと会えた」と。腕の中で力なく微笑んでくれた。苦しいことから逃げ、マナトに全て預けていた結城さんが、己の意思でマナトの支配に抗ったのだ。
結城さんは結城さんのまま、トラウマを乗り越えることができるのかもしれない。そばに私がいれば。それならばやはり、マナトと話す必要がある。
結城さんになにがあったのか。その全てを知っているのはマナトだけなのだから。
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