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第50話 真実 2

「仲良くしてた友達を何人か呼んでくれた。誕生会は毎年開いていて、メンバーも同じ。でも、いつもと違ったのは理恵って子。急に俺の手を掴んできて、引っ張って、隠れたんだ。他のみんなには秘密だよって。ずっと腕にしがみついていた。そしたら、母さんが探しに来て。母さんの顔はあの時と同じ、怖い顔だった」 「その女の子と、どこに隠れていたの?」 「庭に生えてる、ツツジの木の間」 「そこで、何をしていたの?」 「ずっと腕を掴まれてた。それだけ」  無邪気な愛情表現だ。でも、マナトの母親にはそれが、夫を盗む愛人と同じに見えたのだろうか。ひとつ屋根の下に愛人がいる生活に耐え切れなくなれば、精神は蝕まれていくだろうことは、それも想像に難くなかった。 「母さんは金切り声を上げてみんなを追い帰し、また部屋に一日閉じ込められた。次の日は出してくれたけど、もう学校には行ってはダメだって」 「それで男子校に転校になったのだね?」  眉を寄せ、マナトはコクリと頷いた。  そして結城が中学生の頃、心の拠り所である美奈代を筆頭に、若い使用人たちが屋敷から追い出された。  男子校という新たな環境の中、不向きなスポーツをさせられたと言っていた。きっと、出来ないことでクラスメートからバカにされたこともあっただろう。  マナトは感情を無くしたままの表情で言った。 「嫌なことばかりだった」 「いじめられた?」 「……学校だけじゃないけど」  マナトがムッと口を尖らせた。でも怒りというより、悲しそうな表情だった。学校にも家にも、マナトの居場所は無かったのが分かる。しかしマナトの表情はもっと違う何かを感じさせるものがあった。もっと陰湿な何か。 「……お母さんと、なにがあったの?」 「あの人は俺が成長するのが嫌だったんだよ」  普通の母親ならば、子どもの成長は寂しさ半分、喜び半分だろう。とくに息子は母親にべったりだった時期から一気に成長する。それでも巣立っていく子どもを見送るのは親の役目だ。  しかしマナトの母親にとっては……。  マナトは寂しい目のまま、口元だけで笑った。 「初めて夢精した時も、すごく汚らわしいものを見る目で見られたし、鞄の中に仕込まれたアダルト雑誌が見つかった時は屋根裏の倉庫に閉じ込められたよ。どれだけ知らないって言っても聞く耳なんて持たなかった。蝋燭の灯りだけの薄暗い部屋の中でずっと、夜通し聖書を音読させられたんだ」  屋根裏と聞いて、エデンのママの話を思い出した。  バケツで運んだ水。朝には、その水を捨てることもしたという。聖書ということは、母親は宗教に精通していたのか。信者になる際、水に浸かる洗礼という儀式があることを市五郎は昔本で読んだことがある。  ……水はいったい何に使われた? 「父さんが浮気してるから、俺も同類だと思ったのかも。実際そうだった。だって、禁止されていたのに俺はまた覗いたから。罰せられるのは分かってたのにね」  多感な時期に、性的なものを罪悪だと植えつけられた結城さん。そうやって抑圧されればされるほど好奇心は膨れ上がる。父親と愛人の逢瀬を覗くのは自然行為に思えた。しかしそれはマナトの母親にとって、裏切りに等しかったのだろう。だからこその罰。 「罰って……、屋根裏の倉庫に閉じ込められた時、他にも何かされたの?」 「他? あぁ。あれか……」  マナトはふと顔を上げ、遠くの方を眺めた。 「俺ね、学校で襲われたことがあって。運動なんてできないのに、嫌がらせを受けても部活にしつこく居座るから邪魔だったんだよ。足手まといだ。女が男子校に来るなって。まぁ、最後まではやられはしなかったんだけどね」  辛そうな顔のままマナトが笑う。 「俺、バカみたいに逃げ帰ったんだよ。グチャグチャの恰好で。ちょっと考えたらわかるだろうに、まだ家は守ってくれる場所だと甘い考えをもってた。……打算もあったのかも。こんなことをされたのがわかったらまた転校させてくれるかもって。罰を与えるだけの母親に泣きついたんだ」  さぞかし怖かったことだろう。襲われたことも、母親から受けてきた罰のことも。でも、それ以上にマナトは母の愛情を信じ、求め、一縷の望みをかけたのだ。  私がその場にいれば。  考えても仕方がないことを市五郎は思う。 「結果は……わかるでしょ。乱れた格好に、キスマークまでつけて帰ってきた息子。あの時の顔だよ。あの人の中で俺はとっくに淫らな人間になってたんだ。そのまま屋根裏に連れていかれ、汚らわしいって、転校させても意味がなかった。男でも女でも見境ないのかって、頭から何度も冷水をぶっかけられた。どうすれば私の真人に戻ってくれるんだ! って真っ裸にされてタワシでゴシゴシ体中を擦られたよ」  市五郎は言葉を失った。  酷い話だ。母親が常軌を逸していたのは間違いない。しかし、子どもにはそんなことは分からない。ただ母親から否定されたことだけが深い傷として残ってしまう。 「とても、辛かったですね。あなたは悪くないのに」  マナトは自嘲するように笑った。 「タワシってすごく痛いんだ。……でも、もっと痛かったのはあの人の方がよっぽど汚れてたのを知った時だった。あの人の部屋から聞こえてきたんだよ。鳴き声が。同じだった、ううん。もっとすごかった。あんなに厳しい人だったのに、自分から父さんにまたがって動いてたよ。獣みたいに。裏切られて傷つけられたはずなのに、その張本人に縋りついてさ」  固く結んでいたマナトの拳から力が抜けた。市五郎へ視線を向け、微かに微笑む。 「アイツね……」  マナトの口調が急に穏やかになった。 「ずっと泣くんだよ。忘れたいって。消えちゃいたいって泣くからさ。忘れさせてやったんだ。もう何も見なくていいよって。目を瞑りなって。……これが俺とアイツの全部」  全部……。  すべて理解できた。  結城さんが愛情を受けることに対し、あんなにも不慣れで臆病なこと。マナトが過剰なほど性を求め、また求められることを欲する理由。  枝分かれせざるをえなかったこと。  不特定多数を相手にしていたマナトを今の市五郎は咎めることができなかった。両親の愛情を求めようとも叶わない。そんな状況で愛情どころか、自身を見ようともせず、思い込みで責められていたマナトにしたら、母への反抗と同時にそうなってしまった方が与えられる罰に正当性を持たせた方が、楽だと感じたのかもしれない。  それほどまでに、この子は追い詰められ、それでもなお母親への愛情があったのだろう。  相手にされないとわかっていてもなお、父親を慕う結城さんのように。  やはり、マナトも結城さんなのだ。  市五郎はマナトを引き寄せ、そっと抱きしめた。背中と髪を何度も撫でる。 「辛かったですね」  マナトはチラリと市五郎を見る。その眼差しはとても頼りなく、捨てられた子犬のようだった。 「……俺にも、優しくしてくれんの?」 「あなただって矢面に立って辛かったはずです。だから平気なフリをしなくていい。強がる必要もない。わたしはあなたを傷つけたりしません」  マナトはコクリと小さく頷くと、顔を上げまた市五郎を見た。綺麗な瞳がキラキラと揺れている。マナトは何も言わなかったが、その目は「ありがとう」と言っていた。  柔らかな頬を親指の腹で撫でると、マナトは遠慮がちに視線を落とした。市五郎の唇に、マナトの唇がそっと触れる。静かなキスをして、マナトは顔を離しゆっくり目を閉じた。突然、カクッと腕の中で身体が崩れる。市五郎は慌ててマナトを支えた。 「マナト?」  クッタリとして力が全く入っていない。  意識を失ってしまった?  ゆっくり体を横たえ、心臓の音を聞く。穏やかだ。呼吸もちゃんとしている。    マナトはどうして消えたのか。もう話が済んだから?  市五郎はすっかり眠りに落ちてしまったマナトの頬を撫で、ホテルのフロントへ電話しタクシーを呼んだ。マナトを背負い、部屋から出る。タクシーの運転手からはかなり怪訝な目で見られたが仕方がない。胸ポケットの手帳を取り出し、結城の住むアパートの住所を告げた。  以前、マナトの暴走があり結城とまったく会えない日が続いたことがある。あの時、結城は睡眠不足に陥りボロボロの状態になってしまった。市五郎は待ちの姿勢である己を深く反省し、結城からアパートの住所を教えてもらったのだ。何かあった時にすぐに駆け付けられるよう、アパートへ足を運び場所も把握していた。  結城のアパートは三階建ての二階だ。  運転手にこれ以上不審をもたれないよう気を使いながら、意識のないマナトの財布を取り出し、中からアパートの鍵を見つけ出す。  アパートへ到着し、またマナトを背負いアパートの階段を登った。鍵を使いドアを開ける。      中に入ったのは初めてだ。一DKで、引き戸を開けるとキッチンとダイニングテーブル。その先のリビングスペースにベッドが見える。  一通り見渡してみて、市五郎は改めて「なるほど」と思った。  この部屋にマナトの気配はない。清潔感があり結城のイメージそのものだが、どこか殺風景であり、温かみがないように思える。一言で表現すれば、簡素。一人暮らしと言えば『自分の城』という表現があるが、この部屋からはそれを感じられない。  シングルサイズのベッドへマナトをそっと下ろし、服を脱がせパジャマへ変える。掛け布団ですっぽり包むと、冷たくなってしまった頬を手のひらで包んだ。  穏やかな表情で眠りにつく恋人を見つめる。    朝が来て、目が覚めた時────、結城さんとマナトはどうなっているのだろう。  マナトから聞いた話が頭を離れなかった。  使用人達が嫌がる仕事とエデンのママは言っていた。おそらく母親の体罰は一度や二度のことじゃなかったのだろう。 「よく守ってくれましたね」  感謝を込め、マナトの額にそっとキスする。  マナトの言った枝分かれは、本当にそうなのだろう。辛い仕打ちに耐えられなくなって結城は逃げ出した。残ったのが明るく元気で無邪気な愛されていた部分。マナトが全てのトラウマを引き受け、辛い記憶に触れるであろう全ての事柄を一身に背負い込んで生きてきたのだ。純粋で、無垢な結城を守るために。  本当はひとつだった二人。 「目が覚めた時、あなたが誰であろうと、どうなったとしても、私はあなたの味方です」  素直な髪を撫でながら、市五郎は何度も同じ言葉を繰り返した。

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