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第52話 誓い 2
市五郎は腕時計で時間を確認して駅の入口へ目を向けた。時間は夜の七時半を少し過ぎたところだった。もうそろそろ結城の乗った電車がやってくる。
今日、結城は新宿の大型店舗でサインイベントがあり、「帰宅時間が遅くなるので先に夕飯を済ませておいてください」と言われていた。
同棲を始めて三か月。いつも一緒に食事をするのが楽しみな市五郎は、スーツを着ている結城の背中に、駅で待ち合わせをしましょうと提案したのだった。
「先日、駅前通りに新しい寿司屋ができましたよね? 今夜、あそこへ行ってみませんか?」
ん? と振り向いた結城の表情が優しく微笑む。
「いいですね。あ、でも駅に着くのが八時ぐらいになってしまうけど、お腹大丈夫ですか?」
「大丈夫です。結城さんと寿司を食べるのに、空腹なら最高に美味しいですよね」
結城がクスッと笑う気配。耳に甘く響いてくすぐったくなる。
「なるべく早く切り上げて帰りますね!」
「慌てなくても大丈夫ですよ。駅に着く時間が分かったら教えてくださいね」
市五郎は結城の結んだネクタイを少し緩め整えると、細い首筋を撫でるように触れた。キョトンとしていた結城がそっと市五郎を見上げる。
「あなたのチャームポイントが隠れてしまうのは勿体ないですが、他の男の目に晒されるのは嫉妬でおかしくなりそうなので、暑いとは思いますが閉めておいてくださいね」
真顔でおかしなことを言いながら市五郎は思った。
本当はうなじも首筋も全部隠したいくらいだ。
結城が不思議そうに小首を傾げ、視線を彷徨わせた。
「首がチャームポイントなんですか? 僕の首、チャームポイントになるような特徴ってありましたっけ?」
真っ直ぐな目が市五郎へ向けられる。市五郎はにっこり微笑んで結城の柔らかな頬を両手で包んだ。
「結城さんは全部が可愛らしいです。素直でサラサラしている髪から足の先まで。でも、私があなたに最初に惹かれたのは……」
頬からゆっくり手をおろし、うなじを撫でる。たちまち結城の白い肌が赤く染まっていき、瞳が戸惑うように潤みだす。
「スーツの襟から覗く首筋でした。まだあなただと知る前のことです」
「知る前?」
「はい。森さんに原稿を渡そうと出版社へ向かう前にデパ地下へ寄りました。その時、あなたとすれ違いました」
ハッと驚いた結城が記憶を辿ろうとする。コロコロと変化する表情が愛らしい。
「そ、そうだったんですか、えっ、いつだろう……」
「一瞬声をかけようかと思い、やめました。強く心に惹かれたのを今でも昨日のことのように思い出せます」
市五郎はまた結城の頬を両手で包み、額に唇を寄せた。
「作家なのに陳腐な言い方ですが……、きっとあなたと出会う運命だったのでしょう」
純粋な眼差しが嬉しそうにキラキラと輝きだす。
「ううん、素敵です」
「あなたと居られる毎日がご褒美だと思っています。なので遅くなろうと待ってます。連絡くださいね」
結城は「はい」と力強く頷くと、市五郎に可愛らしい眼差しを向けながらネクタイをキュッと締めなおした。
朝の幸せなやりとりを思い出し、市五郎は幸福に浸った。
そういえば結城さんと外で待ち合わせするのは初めてだ。このソワソワと待つ時間すら楽しめるなんて愛する人がいるのはなんて素晴らしいことなんだろう。
ふたり暮らしにもやっと慣れ、最近はますます結城さんのリラックスした表情を見ることができる。もっともっと結城さんの居心地のよい家にしたいものだ。
マナトはあれから一切現れない。
本当にあの子はもう消滅してしまったのだろうか。それとも表に出ないことを決めたのか……。
胸の奥にポツンとひとつ、物悲しい影がいつまでも残っている。
市五郎は目を閉じ開いた。
私は結城さんとの今を大事にしていきたい。
市五郎は考えながら、ふたたび腕時計を確認して駅を見た。
結城からの連絡後、寿司屋に電話をしてカウンターを二席予約もすんでいる。
「あ」
構内アナウンスがかすかに聞こえ、電車がホームへ滑り込む。
あの電車に違いない。
市五郎は駅前の広場にある時計台からゆっくり歩を進めた。改札口から数人の乗客が溢れ出る。その中に結城の姿を認め、市五郎は知らず笑顔になり手を上げた。改札から出た結城が、顔を上げようとした時、背後からポンと肩を叩かれる。
背の高いスーツ姿の男性が愛想の良い笑顔でなにか話しかけている。結城よりすこし年上くらいだろうか。知り合いではないのは結城の様子から一目瞭然だった。かなり戸惑っている。
市五郎は固まり、ハッと息を飲んだ。男性の腕がなれなれしく結城の腰に回る。結城がギョッとした表情になった。
今までならおそらく、スイッチが入りマナトが現れるきっかけになったのでは? しかし今、マナトはいない。
私が結城さんを助けなければ─────
ふたりの間に割って入るんだと、市五郎が結城を呼ぼうと口を開いた瞬間だった。
男性の強引さに押されていた結城が身をスルリと引き、男性の腕を押し退ける。真っ直ぐに男性を見据え、なにか言葉を発した。それから臆することなく、丁寧に男性に頭を下げる。
どう見てもマナトではない。結城本人だと思わせる対応だった。
結城に調子を狂わされた男性は頭を掻いてその場を去っていく。市五郎はホッとして肩の力を抜いた。歩みを止め、結城を見守る。
結城は腕時計を確認し辺りを見回すと、市五郎に気付き笑顔になった。元気に手を上げ、フリフリと振りながら駆けてくる。
「お待たせしました」
「お疲れ様。大丈夫ですか? 今の……」
「あぁ……」
面目なさげに結城が苦笑いを見せる。
「なんか、一緒にご飯でもどうかって。あれってナンパってやつですよね? あんな風に声を掛けられたの初めてでびっくりしちゃいました」
ナンパが初めてなわけがない、初めてなのはマナトが姿を出さなかったことだ。
結城の変化が垣間見え、市五郎は胸を揺さぶられるような気持ちになった。
「……そうなんですね。なんと言って断ったんですか?」
「人と待ち合わせをしているし、今後もあなたの誘いを受けることは出来ませんとお伝えしましたよ」
「今後……」
結城らしい物言いに思わず吹き出してしまう。キッパリ断られた相手にわずかばかりの同情心まで芽生えた。当の本人はなんの疑問もなくキョトンとしている。
「すみません。私がいなくても凛々しく断れることが分かり安心しました」
「もしかして、ついて行ってしまうって思いました?」
「いいえ! 相手の押しの強さに困ってしまうのではと……」
「こんなこと本当にあるんだ? なんて、初めは驚いたけど、一応ボーイズラブの編集者ですから。それに」
改めて愛らしい上目遣いが市五郎を捉える。
「僕には市五郎さんがいますから」
「結城さん……」
駅前だというのに、市五郎は結城の手を取り、少し屈んで指先に唇を落とした。結城の頬がボッと赤くなる。小さく首を竦めて、焦ったように早口になった。
「あっ、あの、い、行きましょうか」
「ふふ。そうですね」
市五郎は結城の手を解放し、ホッと緩んだ表情をした結城の肩を抱いて、同時に膝を掬った。
「うあっ!」
いわゆるお姫様抱っこをされ、結城が声を上げる。
「い、市五郎さん!?」
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