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逃げた子猫
「ヒロ君。出よう」
低い声で言い、ユウがいきなり席を立ち背中を向けた。
「え、え?」
あの男……もしかして、例の元彼?
俯き歩き出すユウを見上げポカンとして、慌てて立ち上がる。俺がすぐに席を立てば、ユウの姿を隠せたのに、一瞬遅かった。背後で男の声が名前を呼んだ。
「ユウタ」
声の主は俺を追い越し、店を出ようとしたユウの腕をガシッと掴んだ。
捕まれた腕をユウは振り上げたが、解けない。そのまま男は店の外へユウを引っ張り出してしまった。
「ちょっ」
俺は慌てて財布から万札を取り出すと、怪訝な表情の従業員に金を押し付けあとを追った。店の外で両肩を掴まれたユウが、男の体を押し返していた。
「おい! 手を離せよ!」
男がこっちを向く。その瞬間「いたっ!」と男が呻いた。ユウは肩を掴む手から逃れ、猛スピードで走り去った。なんて逃げ足の速さだ。
「…………」
ユウから男へ視線を移せば、男は歩道にしゃがみこんでいた。どうやら弁慶の泣き所をおもいっきり蹴られたらしい。
「あのぉ……」
店員がオズオズと近寄ってきた。
「これ、さっき頂いた一万円のお釣りと、忘れ物です」
「あ……すみません」
釣り銭と、二枚の上着。椅子に置いたままだったユウの被っていたニット帽を渡される。男の手にはグッシャと潰れたユウの写真。俺も早いところ退散すべきなんだろう。そう思ったけど遅かった。立ち上がった男は、今度は俺の胸ぐらを掴んできた。
「離せよ」
「誰なんだ?」
「人の名前を尋ねる時は、まず自分から名乗るもんだろ」
「名前なんか聞いちゃいない。あいつのなんだと聞いている」
男は睨みつけるような鋭い目つきだった。相当苛立っているらしい。ユウは逃げるし、脛はズキズキするしって、ところだろうか。
「知らない奴に話す必要が? 手を離してくれ」
「ただの友達じゃないってことか……もうヤったのか?」
挑発には乗らない。こういう交渉は得意なんだよ。
「そういうあんたは元彼さん? もうあんたは過去の人だ。諦めたら?」
「おまえはなにもわかっちゃいない。関わるのはやめておけ。あいつは手に負える人間じゃないんだよ」
俺は掴まれた服をそのままに、思い切り男の胸を押した。
手が離れる。
「それを判断するのは俺だ。逃げちゃった子猫を探しに行くから後をついてくるなよ」
男は中華料理屋の壁にふらりと寄りかかり、声を上げて笑った。
なにも面白くない。イカレたのか?
男を一瞥して、背中を向けた瞬間、男が言った。
「いずれ返してもらうよ」
声を無視して歩き出す。
男が後をついてきていないことを確かめ、ポケットから携帯を取り出した。
仕事初めの日、初めてユウを一日、一人で留守番させた時、もう一台、自分名義で携帯を購入した。
でも渡せなかった。
元彼の携帯を郵便ポストへ捨てたのは俺だ。自分も同じことをしていると思えた。
ユウは携帯を渡されてどう思うだろう?
なにが原因で元彼から逃げたんだろう?
もしかして束縛されるのを嫌って逃げたのかもしれない。
そう思った途端、ワクワクしながら携帯を購入した自分を酷く後悔した。ユウに相談すべきだった。「携帯は要るか?」と。でも……「んー。べつにいらないかな」と、まるっきり興味がない様子で応えるユウが想像できて、相談できなかった。
ユウは俺が会社へ行っている間に外出しようとしなかった。合鍵を欲しいとも言わない。ずっと家の中で、俺の帰りを待っててくれた。購入した携帯は、やはり無用の長物に思えた。
「……渡しとけば良かった……」
あっという間に走り去ってしまったユウ。振り返ることは一度もなかった。俺はただそれを、呆然と見送った。
何度もうしろを振り返りながら、用心の為に最短コースではなく遠回りをしてアパートへ戻った。ユウがアパートで待っていてくれることを願いながら。
ユウは鍵をもっていない。上着もニット帽も無しじゃ風邪を引いてしまう。寒いから本当は早く戻らなくちゃいけなかったけど。アパートへ戻るのが少し怖かった。
もし、居なかったら?
そう思うと、足が重くなった。
「……はぁ」
アパートの前には誰も居なかった。車の影に隠れている人影も無かった。
やっぱりそうか……。
薄々感じていたことだ。俺は静かに落胆しながら、鍵を差し込みドアを開けた。施錠して靴を脱ぎ二階へと登る。当然ながら真っ暗な二階。
……本当に真っ暗だ。
いつ帰ってきても明るくて、ニッコリ微笑むユウが「おかえりなさい」と出迎えてくれた。ギュッと抱き寄せた温もりを思い出す。
ポケットから取り出したニット帽をコタツの天板へ置き、上着を脱ぐのもおっくうで、そのままコタツへ足を突っ込んだ。
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