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対決 3

 橘は鼻で笑った。 「あなたの人生論をとやかく言うつもりはない。でも……それはあいつには当てはまらない。あいつの欲しいのは感謝なんかじゃない。感謝されることに価値など見出していない。タイピングに会話? 対人の仕事でもさせるつもり?」  呆れたような態度はまったく変わらない。それでも俺は辛抱強く続けた。ここで俺が短気を起こしたらいけない。全てはユウの将来のためだ。 「ユウは気付いてないけど、向いていると思いますよ。仕事は自分の好き嫌いじゃない。向き不向きが大事なので、本人の好みは正直関係ありません」  男はまた唇を歪めるように笑った。 「勘弁してやって下さいよ。それこそ最も望んでない仕事だ。生き生きとしていた? 研修が始まればとも言いましたね。ということは、さしずめあなたとのシミュレーションでしょ。あいつは好き好んでコミュニケーションを望むようなマメな人間じゃない。自分が興味ある物、必要と感じること以外はめんどくさいで済ましてしまうヤツです。あいつが働きたいと言ったのはあくまであなたに遠慮してのこと。負担になりたくないと思っているんでしょう。必要だから自ら言い出した。独立心や、人からの謝恩を受けるためじゃない。自分の未来のためなんて思考は持っちゃいない。あいつは好きなことを好きな時に、好きなだけしたいと思っている。今しか見てない。これはあいつのポリシーみたいなものさ」  話はまったくの平行線だった。無理強いするつもりは無いようだけれど、自分の主張をガンとして譲らない。きっとこの男の言い分は間違ってはいないのだろう。ユウを長い間見てきたからこその自信が態度にも言葉にも滲み出ている。  でも、それが本当にユウのための言い分なのかは甚だ疑問だった。 「埒が明かないですね。僕はユウをあなたに返すつもりはない。そもそも、ユウは物ではない。ユウに戻りたい意思があれば、とうの昔に戻っていると思いますしね」  男は初めて表情を変化させた。眉を寄せコーヒーを見つめる顔は、やっと恋人が家出をして途方に暮れている男のものになったように見える。 「優太は誤解しているだけだ。誤解を解けば戻る気にもなる」 「誤解? 詳しく話していただけますか? なんなら僕からユウに話してもいいでしょう。でも、あなたをユウと引き合わせるつもりはないです」  男は一瞬黙り込んだが、キッと強い視線を向けた。 「あなたを信用するしない以前に、あなたから事情を説明して『じゃあ帰ります』なんて言えるわけがない。優太を犬か猫みたいに思っているのかもしれないが、大きな間違いだ。餌をくれるからと誰にでも尻尾を振るようなやつじゃない。どう近づいたのかは知らないが、このまま一緒に居ればあなたもいずれ後悔することになる」  どう近づいたもなにも、俺のスペースに飛び込んできたんだ。  真冬の公園から……新聞を追いかけて。  あの時のユウを思い出すと笑えるような気持ちになるのに、胸の奥が締め付けられた。こんなに心を奪われるなんて思ってなかった。だからって後悔なんてしない。 「僕は真面目な人間ですが、ポジティブでもあります。いつか後悔すると言われて心配になって不眠症になるタイプでもありません。ユウが誰にでもついていく人間じゃないのなら尚更、ユウの気持ちを一番に考えますよ。あなたがどれだけユウを必要としていても、そんなの俺には知ったこっちゃない」 「私が……だけじゃない。優太にとっても必要だってことです」  声は力強く真剣なものになったが、男の声からは苛立ちが滲んでいた。 「ユウにとって今必要なのは身分証明証だけです。あとはユウの能力で生きていけます。あなたは、自分がいないとユウが死んでしまうと思いたいだけではないですか? 僕には分からないとさっきから繰り返してますけどその通りです。僕から見たユウはサポートをすればひとりで生きていける力のある人間です。僕はそのサポートをしたい。ユウを支配するつもりは毛頭ありません」  男の眉間にこれ以上ないというほど深いシワができた。 「サポート……。ボランティア精神かなにかでされては困るということです」 「誰が困るんですか?」 「決まっているでしょ。優太本人ですよ。生半可な気持ちで彼氏を気取られては迷惑だ」 「困るのはあなただけですよ。ユウを自由だと言うのなら身分証明証をユウに返してやって下さい」 「分からない人だな。優太に必要なのは仕事でも身分証でもない。あなたは生涯あいつの傍にいてやれると保証できるんですか?」

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