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第4話 運命は振り返らない
施設併設の病院で検査をしてもらって、異常はないと言われてほっとしたものの、身体中にある赤だか紫だか分からない痕の多さに、正直驚いた。立ち会った山形がわかりやすいぐらいに眉根を寄せていた。
「梅雨明け間近なのに、だいぶ暑いけど、長袖とか着て隠してね」
いつもの看護師がそう言って笑っていた。事後のオメガを、見なれているのだろうか、特に驚いている様子はなかった。
和美は手持ちの長袖のボタンシャツを着て、通学用のリュックを背負って大学に向かった。さすがにまだ腰がだるいきがするけれど、そんなにサボるわけにはいかない。突発的なヒートも優遇措置の対象になるのか聞くのも面倒なので、一日ぐらいのサボりは風邪を引いた程度にしておくことにした。
いつもの通りに席につき、講義を聞いていると、隣に座った学生が、和美のノートを指で叩いてきた。
なんだろうと顔をそちらに向けると、随分男前な顔があった。少なくとも、和美の周りにはいない。
和美が、不思議そうに見つめていると、男前は和美に顔を寄せてきた。
「お前、荒城のイロなんだろう?」
突然耳元で言われたことが理解できなくて、和美は首を傾げた。
「荒城って、誰?」
和美がそう言うと、男前はものすごく驚いた顔をした。
「え?お前秋元和美だろ?」
「そうだけど?あんた誰?」
当たり前の事だけど、この男前も講義を受けているだろうから同じ学部の学生のはずだ。これだけの男前だから、回りが勝手に認識してくれているのだろうけれど、残念ながら和美は回りに興味などなかった。まして、この男前は恐らくアルファだろう。関わりたくない人種なので、視界にも入れてこなかったと思われる。
「……俺は幸城慎一郎ゆきしろしんいちろう」
名乗られても、和美はまったく分からなかった。多分入学後のオリエンテーションで聞いたはずなのだろうけど、所謂陽キャと思しき集団は、目に入れないようにしていたし、ほとんど自己紹介も、聞いていなかった。
「ふぅん、それで?イロってなに?」
幸城と荒城が、若干似ているとは思うけど、あの顔とこの顔の繋がりも分からない。オマケに、知らない言葉を言われた。
「なんの説明もしてないのか、驚いた」
男前改め幸城は、和美をまじまじと見つめて呟いた。
一人で何やら完結しているようで、和美はまったくついていけない。
「何言ってんの?」
話についていけない和美が、しびれを切らして聞いてみた。
「ああ、ごめん。荒城が新しいイロを持ったって聞いたから凄く興味があって、そしたら、同じ学部にいるからさぁ」
そう言って、幸城の手が伸びて、和美の口髭に触れようとした。
「やめろよ、あんたアルファだろ」
オメガである和美は、アルファに触られるのを良しとしない。当然、アルファがオメガの身体に無断で触れるのはセクハラと見なされる。
「そうだね、ごめん」
意外にも、幸城は素直に手を引っ込めた。
「ねぇ、なんで口髭?」
それでも和美の口髭が気になるらしい幸城は、和美に話しかけてくる。そもそも幸城から話しかけてきたけれど、和美の質問に幸城は全く、答えていない。
「虫除け、と形から」
和美の答えも分かりにくい。幸城は目を瞬かせた。
「俺、バリスタになりたいの。で、バイト先のマスターに形からって、勧められたから生やしてみた」
だいぶはしょったけれど、意味は伝わるだろう。
幸城に話しかけられたせいで、講義をまともに聞いていない。とりあえず、板書だけは何とかして、あとは録音に頼るしかない。
「…そうなんだ」
幸城は和美の口髭を、凝視していた。まさかそんな理由で生やしているとは思っていなかったのだろう。何度か瞬きを繰り返して、和美を見つめる。
そんなことをしているうちに講義が終わってしまったので、和美は録音に使っていたスマホを手にした。今回もちゃんと録画が出来ているようだが、後半は幸城の声が入っていることだろう。講義はマイクを使ってくれているから、録音出来ないことはないだろう。
ノート類をリュックに閉まっていると、幸城が自分を見つめていることに気がついた。
「時間ある?」
正直、アルファに構う時間なんてない。
けれど、こいつは和美の質問に答えていない。
「俺の質問には答えてくれるのかな?」
和美がそう言うと、幸城は「荒城ね」と笑っていた。
次の講義がないから、このままここで幸城と話をすることになった。
「秋元は、寝た相手の名前も聞かないわけ?」
ストレートに言われて和美は驚いた。確かに、あのアルファの名前も何も聞いてなかった。けれど、施設の山形が把握していたようで、接触禁止だからとか言っていた気がする。
「なんでそんなこと…」
今日初めましての幸城が、どうして週末の出来事を知っているのだろうか?
「ああ、そうだよね」
幸城が笑っていた。
「俺だけが分かっていて、秋元は何も知らないんだもんな」
そう言って、幸城は一度背後を確認してから、和美の耳に唇を寄せた。
「俺はね、ヤクザの息子なの。で、荒城は親父の片腕みたいな役回りしてる幹部なわけ。そんな荒城が『俺のオメガ』が、見つかったなんて言い出すからさ、興味が出たんだよね」
言われて和美の中で話が繋がった。たしか、あの日マスターが言っていた。最後にコーヒーを買いに来た客が近くの事務所とか言っていた。
「コーヒーの客……」
思わず口にしてしまい、和美は後悔した。
「そう、コーヒーって言ってたな。匂いが付いてたって、言ってたかな?」
幸城の言っている意味がわからない。コーヒーに、匂いがつくはずがない。だとしたら、オメガのマスターの匂いのはずだ。
「まぁ、なんにしても、秋元は荒城と寝たんだろ?番になった?」
そう言って、幸城は気軽に和美の項に手を伸ばす。
「やめろ」
和美はその手を叩いて止めた。オメガの項に触るのはセクハラ行為だ。
「もしかして、番ってない?」
幸城が、訝しむ。
「あんたに関係ないだろう」
完全にセクハラをされて、和美はリュックをもって立ち上がった。イロについては話を聞いていないけど、この流れだと、荒城とかいうアルファの女ってことだろう。そんなのになった覚えは無いので、和美は幸城を無視して教室を後にした。午後に講義があとひとつあるので、適当に食事をして時間を潰すつもりだ。梅雨明けしていないから時間を潰す場所も限られる。
何より、幸城はアルファだ。いちばん関わりたくない人種だった。
───────
コーヒーショップでバイトをしながら、和美は考え事をしていた。すぐそこの事務所だというから、この店を利用するのだろうけれど、ヤクザになんか目をつけられたら商売がしづらいのでは無いだろうか。店には迷惑をかけないという取り決めがあるとは聞いているけれど、それでも不安しかない。
「和美くん、そんな難しい顔してたら、コーヒーの味が変わっちゃうよ」
マスターが笑いながら和美の手を止める。焙煎をしている途中だったから、マスターが加減を見に来たのだ。
「このくらい、ね」
マスターが機械を止めた。
「すみません」
「いいよ、大変だったでしょ?」
施設の山形から連絡を貰っているマスターは、事情がわかっているからか、和美に優しい。
「俺が迂闊だった。キョウが来るまで和美くんを待たせれば良かったんだ」
優しいマスターは、自分のアルファを和美のために足替わりにすれば良かったと後悔を口にする。
「違います。俺がぼんやりしてたから、それに、コーヒーに匂いがついていたって、言われたし」
「コーヒーに?」
マスターは怪訝な顔をして、コーヒー豆の匂いを嗅いだ。次に、テイクアウト用の紙カップを手にした。
「これ?」
紙カップに店のハンコを押すのは和美の仕事だった。確かにその時に紙カップを和美の手がしっかりと掴むけれど、
「うーん、俺じゃ分からないなぁ」
マスターが首をひねっていると、表から誰かが入ってきた。
「何してんの?」
ひょっこりと現れた長身の男。
「キョウ、ちょうど良かった」
マスターは、そう言って事情を説明して紙カップの匂いを嗅がせた。
「うーん、微かにするかな?けれど、これにコーヒーが入るんだから、ほとんど分からないレベルだと思うンだけどな」
キョウが意見を述べると、マスターも頷いている。
「他に、何か言われた?」
「イロとか、俺のオメガとか、そんなこと」
今日幸城から言われたことを思い出す。
「運命か」
マスターが、呟いた。
「運命?」
昔授業で聞いたことがあるような気はするけれど、あまり馴染みの無い言葉だ。
「運命の番だね。相性のいい番のことをそう言うけれど、都市伝説みたいなもんだと思っていたよ。運命だからこんな僅かな匂いもコーヒーの香りに負けずに嗅ぎとったって事なのかな?」
キョウはそう言って、紙カップの匂いをもう一度嗅ぐ。空調のきいた店内だから、手汗なんてかいてはいない。それなのに嗅ぎ分けられる匂いがつくものなのか、さっぱり分からない。
「まぁ、和美くんは施設の預かりだから、オメガ保護法がある限り、無理矢理はしてこないと思うんだ。でも、周りの連中がなぁ」
店には危害を加えない約束を書面で交わしているけれど、店から出た和美はその対象ではない。と言われればそれまでだ。オメガ保護法があるから、和美に危害を加えれば処罰の対象になるけれど、なにかがあってからでは遅いというものだ。
「今日、その事務所?の息子ってやつに声をかけられた。同じ学部だったみたいで」
和美がそう言うと、マスターが渋い顔をした。
「そこにあるのは事務所のひとつで、息子って言うからには組長の息子だろうな。大学にいる間の監視役になってくれればありがたいけど、そうじゃなかった場合は面倒だな」
キョウが、そんなことを口にしていると、来客が来たことを知らせるアラームが鳴った。
「いらっしゃいませ」
マスターが慌てて店に出ると、そこには荒城が立っていた。
「テイクアウトで、コーヒー二つ」
「かしこまりました」
マスターはそのままコーヒーを用意する。和美の前にはキョウが立っていて、わざと荒城に見えるように立った。
「和美は、もう、上がりだろう?」
支払いをしながら荒城が言った。
「そんな約束してましたか?」
マスターが、そう言ってコーヒーを二つ荒城に差し出す。
「今日、若が接触しただろう?だから送っていく」
荒城の言う若と言うのが、幸城なのだと和美は理解した。けれど、それが送っていくことに繋がるのが理解できない。
「そうですか、では責任はとってもらいますよ?」
マスターはそう言って、和美に上がるように言ってきた。そして、店の入口から和美をキョウと二人で見送ってくれた。
「分かっていると思いますけれど」
「ああ、GPSだろ」
マスターが、言い終わる前に荒城が答えた。施設の山形からも言われたことだ。無断で和美を連れされば、直ぐに追跡されるのだ。
和美が助手席に座ると、荒城はドアを閉めて運転席に回る。和美のシートベルトをとめて、それから自分のシートベルトをしめた。
「送りながら、話を聞いてもらう」
普段バスにしか乗らない和美は、車高の低いクルマの視界に驚いた。思わずシートを握りしめる。そんな和美を見て、荒城は薄く笑う。
「コーヒー、ひとつはお前の分だ」
言われて、和美はひとつを口にした。自分が焙煎して、マスターがいれたコーヒーだ。毎回味見はするけれど、こうやって飲んだのは初めてだった。
「俺が堅気じゃないってことは知ってるんだろ?」
「ええ、まぁ」
周りの大人たちから、ざっくりとは聞かされていることだ。
「若、幸城慎一郎が今日声をかけてきただろう?」
「若ってなに?幸城は、確かに今日隣に座ってきて話をしたけど」
和美にはそこから説明をしなくてはならないことに、荒城は生きる世界の違いを思い知らされた。
「幸城に、荒城のイロなんだろって言われたけど…あんたが荒城さん?」
荒城が考え込んでいるうちに、和美から新しい情報がやってきた。どうにも回りが余計なことを教えてくれている。
「ああ」
荒城は、自分を落ち着かせるためにコーヒーを飲んだ。
「俺が荒城だよ。悪かったな、自己紹介してなくて」
ヒートで抱き潰した時に、自分は和美を名前で呼んでいたけれど、教えるのを忘れていた。いや、教えたかもしれないけれど、何も覚えてはいないのだろう。
「イロっていうのはアレだ、こっちの用語で女とか、そういう意味だよ」
「俺男だし、あんたのものになった覚えはない」
和美が、あっさりそんなことをかいうから、荒城の心は若干挫けた。
「ああ、そうだよな。え、と、なんだっけ、ああ、若って言うのは、組長の息子って意味だよ。若頭とか、そんな言い方もするけどな、まぁ、俺たちは慎一郎を若って呼ぶんだ」
「ふーん」
聞いても理解できないのか、和美は目を瞬かせる。
「まだ番ってないからな」
荒城はそう言って、和美の首に巻かれたネックガードを指でつついた。
「俺、番になる気は無いからね」
あっさりと、荒城の方を見ながら和美が告げる。
「つれねぇな」
荒城が自嘲気味に言うけれど、和美は取り合わない。
「見てわかるでしょ?俺、ホルモン療法試してんの。口髭生やしたのもその一環、オメガに見られたくない。その、イロとか、呼ばれるのも迷惑だ」
和美が一気にまくし立てるように話すのを、荒城は黙って聞いていた。
「俺、コテージ生まれのコテージ育ちだから、意味わかるよね?」
睨むような目線をよこされて、荒城は黙って頷いた。
「それと、父親は分からない。コテージの外で俺を妊娠したみたいだから、これも意味わかるよね?」
ヒートの時に、コテージに住むオメガがわざわざコテージを利用しないで、外で孕んでコテージに帰ってきた。つまり、コテージに登録が出来ないようなアルファの子どもという訳だ。
「あんたみたいな人なら、俺が良くないって分かるよね?」
思わず荒城の喉が鳴った。
しかし、そんなことを言われても運命だ。荒城が諦められるはずは無い。
「若にもバレた。番にならなくても、周りの連中からは俺のイロとして見られている」
「そーゆーの、迷惑だよ」
周りが勝手に事を進めていくのは、迷惑以外のなんでもない。和美はコテージに一生住むつもりだし、誰か特定のアルファと、連れ添うつもりなどこれっぽっちもないのだ。
「今俺から離れる方が危ないんだよ」
荒城はそう言うけれど、そもそも事故みたいなヒートで抱かれてしまっただけだ。そこに和美の意思はなかった。
「それに、出会った途端にヒートを起こしたんだぞ?運命だろ?拒んでくれるなよ」
車内にコーヒー以外の香りが漂ってきた。冷静な状態にいるから、和美はその香りの正体が分かっている。
「俺はその運命とやらの一人なんだろ?」
コーヒーを、口に含んでゆっくりと飲み込む。香りが鼻を抜けて、車内に広がる香りを誤魔化した。
「運命は一人だよ」
荒城が呆れて言うと、和美がすかさず口を開く。
「その、イロってやつの一人なんだろ?そんなのの一人にされるのは迷惑だ」
和美がそう言うと、荒城は困った顔をした。当たらずとも遠からず。確かに荒城は女に困ったことがない。気が向いた時に相手をする女、イロが複数いるのは確かだった。
「お前はイロじゃない。オメガだ」
そう言って、荒城が和美の腕を掴む。
目の前に荒城の顔があって、和美は一瞬心臓が苦しくなったけど、コーヒーの香りを嗅いで自分を落ち着かせる。
「迷惑だよ」
片手で荒城を押しやると、既に駐車場に着いているから、和美は車から降りようとした。
「待てよ」
荒城は慌てて先に車から降りて、助手席にまわる。
ドアを開けて、和美のシートベルトを外した。和美の手を取って車から降りやすくする。
「入口まで送る。あの山形ってやつにきつく言われてる」
「山形さんが?」
自分の知らないところで大人が話し合っているようで、和美はなんだか納得がいかない。
「本当は囲い込みたいところだが、コーヒー屋からの送りだけで妥協した。遅い時間だからな」
「俺、男だけど?」
「俺のオメガだからな」
「あんたのものになった覚えは無いよ」
和美はそう言って、施設の中に入っていった。扉が閉まるとすぐに施錠の音がする。カチカチという音は、モニターか何かが作動した音なのだろう。
荒城は仕方なく車に戻った。
車内に残されたコーヒーは、完全に冷めていた。
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