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番外編3 コーヒーの香り
「コーヒーだけ飲むのは胃に良くないよ」
朝食を食べるなんて習慣のない荒城は、和美が淹れるコーヒーを飲みながら経済新聞に目を通していた。
最近はインテリ傾向にあるとは聞いてはいたけれど、目の前で見るまでは半信半疑だった。確かに、若と呼ばれる幸城も大学に通っているし、きちんと単位をとるために真面目に授業だって受けている。アルファらしく理解力が高く、教授たちも幸城の提出するレポートを高く評価していた。
どんな形態であろうとも、ひとつの組織で企業ではある。上に立つものがそう言った知識を持っていなければ、成り立たないのは事実だろう。
現に目の前にいる荒城だって、所謂一流大学を卒業していた。専攻は政治経済だというのだから、正しくインテリヤクザと呼ばれる部類になるだろう。
「習慣がねぇんだよ」
新聞を少しずらして、荒城が顔を出してきた。和美より年上ではあるが、アルファだからなのか年齢の分かりにくい端正な、顔立ちだ。
「……俺はあるの」
一緒に暮らし始めて、最初の頃は気にもしていなかったが、さすがに大学の夏休みが終わりに近づいてきて、和美がそれに合わせた起床時間に切り替えた頃発覚したのだ。
朝食の用意がない。
炊飯器がないのは許容範囲だったが、トースターもなかったのだ。コーヒーを淹れる為の道具は和美が持参したからいいのだけれど、それに合わせた朝食を用意しようとしたら、何も無かったのだ。
「…で?」
荒城が和美の顔を見て続きを促す。
「毎朝コーヒーチェーン店のモーニングとかないから、せめてトーストぐらい焼けるトースターが欲しい」
和美はそう言いながらパンケーキを口に運んだ。
「それは?」
「パンケーキ」
添えてあるのは焼いたベーコンとほうれん草、施設にいた時から、和美にとっては定番のメニューだ。
「俺には?」
「何回も聞いた。返事しなかったのはあんただ」
和美は唇を尖らせて、顔を横に向けた。どうやら、新聞を読むのに夢中になって、キッチンから問いかけてくる和美の声が耳に入らなかったらしい。愛する番の声を聞き逃すとは、失態だった。
「悪かった」
素直に謝る荒城の口に、和美がパンケーキの切れ端を突っ込んだ。ほんのりとした甘みのシロップが口の端に付いた。
「美味いな」
温かい食べ物を朝から口にするのは久しぶりすぎて、思わず口の端が自然と上がる。しかも、甘みもしつこくなくて随分とあっさりとしていた。
「このメープルシロップ、サラッとしていて口当たりいいんだよね」
今度はベーコンと一緒にフォークに刺して、荒城の口の前に持ってきた。
「ああ、そうだな」
甘くないパンケーキに、サラッとした口当たりのメープルシロップが何故か塩気のあるベーコンとあっていた。コーヒーで飲み込むと、口の中がスッキリとする。
「もう一口」
そう言って荒城が口を開けると、和美はぞんざいに一口大に切ったパンケーキを突っ込んだ。
「もう、だから聞いたのに」
和美はブツブツと文句を言いながらも、自分の口と荒城の口に交互にパンケーキを入れたのだった。
───────
「で、何を買えばいいんだ?」
結局和美が世話になっていたコテージに併設されているショッピングモールで買い物をすることになった。
家電量販店はついているし、キッチングッズを取り扱うオシャレな店舗もある。和美はこんな買い物はしたことがなかったから、一つ一つじっくりと見てしまうし、店員の説明もしっかりと聞いていた。
本来なら、番が他の男の話をじっくりと聞いている姿なんて、腹が立って仕方がないところだが、まるで新婚さんのような気分で荒城は黙って後ろに立っていた。
もちろん、荒城が黙って後ろに立っているだけで、ベータの店員は警戒し不用意に和美に触れたりなどしてはこないのだ。
最初はパンを焼くためのトースターが欲しかっただけの和美であったが、いざ店に来て店員からの説明を聞き始めると、オーブンが欲しくなってしまった。バイト先のマスターは、パウンドケーキだけは焼いて店に出している。ちょっとした甘味は、コーヒーにあうのだ。
けれど、パンを焼くだけのトースターと、オーブンでは随分と値段が変わってくる。それに、美味しいトーストが、焼けるというトースターも捨てがたい。
「ねぇ、相談なんだけど」
お金を払うのは荒城だ。
和美はコテージで過ごしていた頃のように、荒城にお伺いをたててみることにした。
「電子レンジはあるんだよね?」
和美はキッチンの情景を思い浮かべながら荒城に話しかけた。簡単な白い電子レンジが、広いキッチンにぽつんと置かれていた。
「ああ、コンビニ弁当あっためるのに使ってるやつだな」
そのコンビニ弁当も、滅多に食べたことも無い。基本は外食の荒城なのだ。
「美味しいトーストが焼けるトースターが欲しかったんだけど……」
実際店に来たらアレコレ目移りしてしまって、決められなくなってしまったのだ。
「場所なんてあまってんだ、欲しいものどれでも買ってやる」
荒城はそう言うと、和美の頭をぐしゃりと撫でた。伸ばして後ろで縛っているから、前髪だけが乱れたけれど、和美はすぐになおしてしまった。
「だって、電子レンジがあるのにオーブンレンジが欲しくなっちゃったし、あのトーストが美味しく焼けるトースターも捨てがたい」
和美が気に入ってしまったトースターは、食パンが美味しく焼けることに特化した商品で、毎朝トーストを食べるのなら、炊飯器を買うより安いものだろう。けれど、和美はオーブンレンジもほしくなってしまった。電子レンジはあるから、機能が重複してしまう。
「何言ってんだ?あんなのあっためるだけだぞ。重さや素材なんて関係なくあっためることしか出来ないんだ。欲しけりゃそのオーブンレンジを買って、あの電子レンジは捨てればいいだろう?」
番の欲しがるものならいくらだって買えるのだ。それぐらいの財力が荒城にはある。今まで引っ掛けてきたイロたちは、宝石やら服やらをやたらと欲しがってきたものだが、今番である和美が欲しがるものは、荒城のためにもなるものだ。
欲しがるなら、なんでも買ってしまってかまわなかった。
「だってまだ使えるのに…」
使えるものがあるのに、捨ててしまうのが勿体ないと和美は思うのだ。だからそんなことを口にしてしまう。上目遣いでそんなことをモゴモゴと言われると、荒城は自分が悪いことをしているような錯覚を感じた。が、ここは家電量販店だ。店員は新しい家電を買ってくれる客を待っているのだ。和美の向こうから、店員が荒城に熱い視線を送ってきているのに気がついた。
「なんだ?」
ほんの一瞬、番の仕草が可愛くて口角が上がってしまっていたのを見られたかもしれない。荒城は取り繕うように低めの声で店員に声をかけた。
「はい、当店は下取りサービスもしております。お届けに上がった際、ご不要になった電化製品を下取りサービスとしまして、当店の商品券と交換させて頂いております」
店員は流れるような口調で言ってきた。要は、悩める客、つまり和美の心を動かそうと言う魂胆だ。まだ使える家電が勿体ないと言う和美を、懐柔するために、下取りサービスを持ち出してきたのだ。
「そいつはいいじゃないか」
荒城は店員の意図を汲んでやった。和美が遠慮しているのがわかってしまったし、何より、番の欲しいものはなんでも買ってやりたいし、いい所を見せたい。悩める番の問題を解決して、スパッと買い物を済ませてしまいたいところだ。
「下取り…」
そう言う制度があると言うのは聞いたことがある。リサイクルショップも街中には結構見かける。
「下取りした物は手入れをしてリサイクル品として販売したり、レンタル品とされたりしておりますのでご安心ください」
店員は、和美の「もったいない」にも答えてくれた。そうなるともう、和美の懸念は無くなるというもので……
「どれがいいんだ?」
荒城が聞くと、和美は黙って目当ての商品を指さした。
───────
「コーヒー屋は、コーヒーしか出さないのか?」
和美が、オーブンレンジで早速ケーキを焼いていると背後から荒城が声をかけてきた。
「え?」
ケーキの焼き上がりが気になって仕方がない和美は、突然の事に驚いて振り返った。
白を基調としたアイランド型キッチンは、荒城がほとんど使っていなかったからとても綺麗な状態で、モデルルームの様な状態だった。だから、和美はキレイに使うことをこころがけている。白い大理石に手をついてコーヒーを飲む荒城は、とても様になっていた。
「バイト先のマスターだって、パスタやらケーキやら出してんだろ?」
「うん?」
「カズは出さねぇのか?」
荒城の質問の意味が分からなくて、和美は何度も瞬きを繰り返した。
「えっ、と…だって、俺は…」
まだバイトだし、バリスタの資格も取れてないし、マスターの許可がおりてないし。
「今じゃねぇよ、カズ。将来的に、だ」
コーヒーを一口飲んで、荒城は続けた。
「自分の店を持ちたいんだろ?そんときに、コーヒーだけじゃなくてなんか食いもんは出す予定ねぇのか?ってことだ」
そこまで言われてようやく和美は荒城の意図が読めた。オメガだから、施設で生まれ育ったからと和美は自分の欲を出すことが苦手だった。だから、将来はコーヒー屋をやりたいと漠然とは思ったけれど、それだって、施設のコテージにあるバーカウンターでコーヒーを入れる仕事をしたい。と言う施設に依存した将来設計だ。
「おいおい、お前の番を過小評価してくれるなよ?どんな店だって用意してやれるし、必要ならスタッフだって揃えてやれるんだ。ただし、それはカズが望めば、ってことだ」
「俺、番う気ないけど……」
和美はそう呟いて、目線を落とした。ケーキはオーブンレンジの中で随分と膨らんできている。まだ焼き目がついていないから、淡い黄色のスポンジはまだまだ盛り上がって来るようだ。
「気が変わるかもしれねぇだろ。俺は気が長えからな。っと、クレーマーベータはよ、何かにつけてイチャモンつけてくんだよ。だからな、資格はあった方がいい。その気があんなら料理学校に行って資格を取っとけ」
「え?で、でも」
お金がかかるし。いまは大学に通ってる。資格の取れる学校ともなれば、何年通うことになるのだろうか?
「この手の学校は夜間が充実してんだよ。昔からなぁ、ガキの頃にヤンチャしちまったやつが手に職つけるために通いやすかったんだ」
そう言って、荒城は数冊のパンフレットを出しきた。
───────
和美の通っている大学の裏門近く、住宅街寄りにログハウスのモデルハウスが建っていた。事務所を兼ねていたから、中古物件としての扱いだった。
「俺がやりたいコーヒー屋にするには広すぎるよ」
内覧をしながら和美は荒城に言う。
「二階は俺の事務所にするから心配するな」
「えっ?」
和美が驚いていると、荒城がさも当たり前のように続けた。
「番を護るには、そばにいないといけねぇからな。だからって俺が店にいたら客が入りずれえだろ?」
荒城はそう言いながら和美の項の辺りを撫でた。荒城の贈ったネックガードを指でなぞる。これで護れるのは項だけだ。
「…こんなアルファのにおいがしたら、お客さん入らないよ」
和美はそう言って荒城を軽く睨んだ。
「四六時中フェロモン垂れ流ししてる見てぇに言うな。俺がいれば変なアルファは入ってこれねぇだろう?」
「う、うん」
「二階で真面目に仕事してっから、そうそう下に顔出したりはしねぇからよ」
そう言って荒城が和美の髪をぐしゃりと撫でるから、和美は首をすくめるしかなかった。そうやって自分に降りかかるアルファのフェロモンは、決して嫌では無いのだ。
「まぁ、最低人数の顧客は確保ってことになるならいいけどね」
「おい、金とんのかよ」
「そりゃとるでしょう?」
「オーナーは俺ってことでいいんだな?」
「だって俺金ないもん。全部出資してもらうからな」
そんな二人のやり取りを、不動産屋の営業マンは離れた場所で黙って見ていた。
きっと、これから発注されるであろうリフォームのことについても、一言も口を挟むことはないだろう。
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