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第11話

 雨に打たれる睡蓮を、旭はぼんやりと眺めていた。雨に生まれた波紋が波紋と重なり、多彩な模様を描く水面に自分を重ねながら。  旭がいるのは、御所ではなかった。都から程近い、上皇が時折使う別邸の、庭が見える濡縁に坐して、雨音よりもひそやかな呼気を繰り返している。  昏倒した旭が気付いたのは、この屋敷の中であった。気が付いたあとも体を起こす気力が出ず、見る影もなく痩せた旭が動けるようになったのは、半月後であった。目の前の睡蓮は見ごろを過ぎてなお美しい。食べることを思い出した旭は、空虚となった体にゆっくりと失った命を戻すために以前と変わらぬほどに食べ、目の前の庭を歩いた。  旭が御所に居なくとも、世はつつがなく時を過ごしているらしい。けれども帝が不在ということは問題で、それが大きな騒ぎにならぬよう上皇は葵宮をつけて療養のために密かに良き方角の屋敷へ参らせたと、皆に伝えたらしい。それでひとまずの混乱は避けられているようだが、博雅以外の血縁の姫を入内させている公家達は心中穏やかではなかった。何処に居るのかと知りたがる公家達をあしらいつつ、屋敷の場所をはぐらかし、上皇は旭をかくまっている。どうやら藤原博雅すらも、旭の居所を知らされていないらしい。 「帝」  声をかけられ、ゆるりと首をめぐらせば、雨に滲みそうな笑みを浮かべた葵が居た。雨音で近寄る音も消されるくらい、静々と姫は側により、膝を付いた。 「そろそろ、お会いしとうございましたので、参りました」  しばらく葵の顔を眺め、少しも表情を動かすことなく旭の目は庭に戻る。細く長く息を吐き、寄り添って葵はそれに倣った。 「よく、降りますこと」  ぽつりと生まれた声は行き場を失い、雨に消える。ただ横にあり、何も語らず、目をあわすこともなく、ふたりは雨音に身を委ねている。ややあって、旭が口を開いた。 「文を、出せばいい」  問うように首をかしげながら顔を向けた葵を見ずに、言葉を続ける。 「交わしていた相手に、文を出せばいい」 「――――え」  たっぷりと時間をかけて立ち上がり、旭は姫に背を向けた。 「愛おしい相手に文を出し、この屋敷で会えばいい。――我も、そうしよう」  すう、と深く息を吸い込むと、声を上げた。 「誰か、紙と墨を用意せよ」 「帝、何を――」  腰を浮かせた葵に向けられた旭の笑みは、陽炎のようであった。 「この屋敷で睦み――子を成せばいい。その男の素性によって、官位を与える。子は、我とそなたの子として育て、立太子させよう」 「帝」 「その呼称は、疲れる」  ふら、と足を踏み出した旭は文箱に手を伸ばし、開けた。そこには、上皇が受け取りこちらへ送られた文があった。全て義直の手で、短い文と和歌が綴られている。それらを広げ、順番に並べながら呟く旭を、葵は痛々しく見つめた。 「これは、我が昏倒してより三日目に書かれた文。それから一日と明けずして、毎日、毎日こうして届いておる」 「帝」 「――――旭、と」 「旭」  呼びなおした姫が両手を広げ、幼子を守るように彼を抱きしめた。ことりと頭を腕に預けた旭が、文の一枚を持ち上げ見せる。 「これはまるで、恋焦がれて仕方がないと言うておるようではないか」  身を震わせ空笑する旭を抱きしめる葵は、上皇から全てを聞いていた。――木曾義直は、立太子争いに負けて御所を追いやられた、上皇が想いを寄せていた姫の子である、と。  藤原博雅を面白くなく思う者たちが掲げた皇子は、後ろ盾を次々と懐柔され寄る辺のない身に転じた。このままでは母子ともに命危ういことが起こらないとも限らぬと案じた、当時は帝であった上皇は、旭を次の帝に立てるかわりに母子を出家させ、安住できる場所を与えると宣言し、争いを収めた。その時、旭は五つ。当時は盛仁(もりひと)と呼ばれていた義直は八つであった。その時、天皇警護の任を負っていた武家集団の中からひとりを選び、母子を夜分に連れ出し寺へ送る役に就けた。その時、いずこからか連れてきた似た年恰好の男児を身代わりとし、盛仁は名を変え武家の子になりすまして生活をしてきた。その盛仁が、旭が惹かれている木曾義直であった。  そのような事情の男なら、帝を哀れといえるのも頷ける。宮中で暮らし、帝となるべく教育を受けていたのだから。彼が無位無官でも生活が出来ているのは、理由を知っている者と斉彬の意向と庇護があれば、当然だろう。裏を返せば、事情を知っているものは上皇の弱みを握っているとも言える。よもやそのようなことで何かを企む者などに上皇が息子の身を委ねはすまいが、義直自身が朝廷を恨み何かを企てているとなれば、話は別となる。  彼は、正当な血筋なのだ。  義直が素性を明かし人を募り、落とされた無念を晴らそうとして御所に戻るために動いていたとしても不思議はない。  帝を哀れと口にしたのは自分の身を広めるためであり、公家らがうわさばかりを追いかけることのみであったのは、権力者が裏で糸を引いていたと考えれば得心が行く。――そしてもし、その企みが全て、愛する姫と息子を奪われた上皇の意思も絡んでいるのだとしたら。  そのような事まで思いをめぐらせた旭は、自分が何に衝撃を受けているのかさえ、わからなくなった。昏倒する直前に浮かんだのは、義直の柔らかなまなざし。――遠い昔に感じたことのあるような、あの温もりであった。  葵の考えも上皇の企みにまで行き着いているのか、ただ義直が旭の異母兄弟であり政治的な理由で母子共に追いやられたということだけで留まっているのかはわからないが、上皇に呼ばれそれらを告げられた後、旭に寄り添い屋敷に移ることを承諾し、口が堅く気の置けぬ女房ひとりだけを供として、祖父の藤原博雅にも他の女房にも行き先を告げずに上皇に言われたまま、ここに居た。胸中に、自分が入内をした時に味わった、抗うことが出来ない別離を思い出しながら。 「これなど、おかしいとは思わないか」  腕の中の旭は泣き笑いのような虚無を浮かべ文を広げては、葵に見せてくる。広げられている文はどの手も素晴らしく、旭を愛おしく想う和歌が綴られていた。 「このような文のやり取りを、していたのだろう」  甘えるように、旭が見上げてきた。 「入内してから二年が過ぎております。もう、別の方と契られていらっしゃるでしょう」 「かまわぬではないか。想いを遂げれば良い。そして、その子を我の子とする」 「そのような不義は――」 「男児を必ず孕み、我を退位させてくれ」  かすかな悲鳴を上げた従弟を、葵は強く抱きしめた。  結局、旭は文を書くことが出来ずに再び寝込んでしまった。枕元に文箱を置き、時折開いてはむせび泣き、疲れては眠る。そんな事を繰り返す彼の元に、上皇の使いとして彼が牛車を用意させた男が見舞いに来た。本来ならば庭先より先に上がることは赦されない身分だが、今回は上皇の使いということで特別に旭の枕の側によることを赦され、恐縮しながら拝謁をすることとなった男は、まずは無礼を詫びる言葉を述べた。 「帝とはつゆ知らず、御無礼つかまつり申しましてございまする」 「かまわぬ」  声を出すことすら億劫だと、やつれた身が告げていた。 「木曾義直のこと、知っていたのか」 「某が用いておる牛飼いが、幾度か言葉を交わしたことがあると申しておりましたゆえ、御案内でき申しました」  それでは、彼が皇族であるとは知らなかったのか。――心の中でつぶやいて、旭は身を起こした。 「ご、ご無理は」 「かまわぬ」  ゆっくりと息を吐き出し、男にひたりと視線を据えた。 「何ゆえ、あの者は我と会うたと思う。他の者らはうわさを拾うばかりであったのは、、何故であろう」  は、と短く言いながら頭を下げ、男は答えた。 「かの者は、公家嫌いと聞き及んでおります。国を支えて居るのは民であるのに、と常に口にしておるとか。それゆえ、かくまう者も多くござりましょう。帝とお会いされましたのは、牛飼いと面識があったからかと存じまする」 「なるほどな――――では、すぐにでも木曾義直をこちらへ寄越せ」 「は――?」 「牛飼いの顔を立て、我を見舞いに来いと告げよ」 「そ、それは」 「出来ぬか」  狼狽を肌の下に押し留めようとする男を眺め、息を吐く。 「上皇に、なんと言われて参った。使いで参ったのであれば、言伝か文があろう」  ぐ、と男が体を下げて腹に力をためて言う。 「好きにせよ、と」  覚悟を決めたらしい男の姿に、旭は目じりを柔らかくした。 「名を、聞いておこう」 「源(みなもとの)平盛(ひらもり)と申しまする」 「平盛、我の元へ木曾義直を参らせよ。どのような時刻でもかまわぬ。人払いをし、待っておると伝えて参れ」  床に着きそうなほどに平伏した平盛は、そのまま縁側の端までいざりながら後退して立ち上がり、一礼をすると足早に去っていった。しばらくして、馬を駆る威勢のいい声が聞こえた。 「客が来るやもしれぬ。少しは食べておかねばなるまい」  人を呼び、すぐに粥と菜を用意させ、葵のもとへこのことを告げに行かせた。 「あのお方が、いらっしゃるそうですね」  旭の食事を運ぶ女房と共に、葵が現れた。全てを置いた女房達はすぐに去り、部屋にはふたりだけとなった。 「会ってみたいか」 「おふたりで、つもる話もございましょう。お会いするのは、いずれまた」 「我が死ぬやもしれぬぞ。意趣返しのできる機会だからな」 「そのようなこと」  ほほ、と口元を袖で隠しながら葵は文箱に目を向けた。 「あのような歌を送られる方が、いたすとは思えませぬ」 「怨んでおるかもしれぬ」 「そうではないかも、しれませぬ」  さぁと膳を少し押して食べるように促す葵に、さも面倒だと言いたげに鼻から息を吐き出した旭は、匙に粥をすくい口に運んだ。  黙々と食べる旭を葵は眺める。半分ほど食べ終わった頃に、旭が問うた。 「文は、出したのか」 「旭が全て食べ終えたなら、お答えいたします」 「厳しい従姉殿だ」 「姉上と、呼んでくださってもよろしいのですよ」 「我が妻であるのにか」 「今は帝ではなく、旭なのでしょう。私は帝の妻であり、旭の妻ではありませぬ」  いたずらっぽい響きに口元をほころばせた。 「では、全てを食して聞くとしよう」 「そうしてくださいまし」  冬の隙間に差した東風のように、わずかな温かみが吹き込んだ。

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