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第12話

 月が、おぼろげに空に浮かんでいる。葵の相手は忍んでくるころだろうかと、群雲に覆われた月を眺めながら、ぼんやりと思う。  全てを食べ終えた旭に、葵は文を出すと告げてすぐさま歌を詠んだ。相手の名は明かされなかったが、彼女付きの女房である萩は全てを心得ているらしく安堵と哀愁を浮かべながらも、しっかりと文を胸に抱き、おまかせくださいと請け負った。必ず、それは相手に届いているだろう。  風が、ゆっくりと雲を運ぶ。覆われていた月が姿を現し、空が漆黒にならぬよう勤めている。藍色の空には無数の星が輝き、あと少しすれば秋の始まりを告げる音色が庭から聞こえ始めるだろう。  ふと、義直の庭を思い出す。あの庭では、ここの庭よりも多くの虫達が集まりそうだ。涼やかな音色が多すぎて、うるさくなりはしないだろうか。いや、それほど多く集まるのならば、それらを捕らえようと猫やいたちなどが忍んでくるだろう。そうであるなら虫達は声を潜め、うんと静かなものになるか、調度良き頃合になりそうだ。  たわいない想像に、ふふ、と笑みがこぼれる。あるかなしかの愉快を唇に乗せたまま、旭は縁側にある柱に背を預け、目を閉じた。脇には、酒と肴が用意してある。文も、書いておいた。自分が待ちきれずに眠ってしまっても、これを読めば義直は自分の素性が知れたとわかるだろう。――我の想いも、わかるであろう。  規則正しい呼吸を繰り返す旭の意識は、ゆっくりと眠りの淵に向かって進む。そこは、生まれ始めた春のように暖かく、柔らかな気配が満ち満ちていた。  むせるほどではないが、体中を包み込むほどの草の香り。雨上がりだからだろうか。土はわずかにぬかるみ、足を取る。どこかへ向かおうとしていた旭は、まわりに誰も居ないことに気付いた。周囲を見回しても、自分よりも背丈の長い草ばかり。不安に駆られ走り出してみたが、方向がわからない。誰かの名を叫ぶ幼い旭は、遠くから聞こえる声に耳を澄まし、足をそちらへ向けた。体がはちきれそうなほどに鼓動が鳴り響き、足が思うように進まない。それでも懸命に走ると、ふいに目の前に見覚えのある着物と腕が現れ、飛び込んだ旭を受け止めた。  優しく、けれどしっかりと抱きとめる腕は――あれは―――― 「起こしてしまったか」  ぼんやりとした視界に、哀しげで優しい笑みがあった。夢の続きのような光景に、薄く唇を開き、名を呼ぼうとしながら手を伸ばす。指先が頬に触れ、視界が鮮明になり、暖かなものに包まれていることを認識してから声が出た。 「義直」  男は、笑みを深くして頷いた。 「夢を、見ていた」  義直の胸に頭を預け、顔を埋める。 「なつかしい、夢だ」  義直の香りが鼻腔に触れて、胸に込み上げてきたものが目から溢れる。 「幼い我が草の中に迷い、救い出される夢だ」  あれは、あの人物は 「そなただった」  旭の腕が義直の背に回り、しがみつく。幼子のようなしぐさに、義直の腕が応えた。 「こうして、我を抱きとめたのは――異母兄弟であった、そなただ」 「ずいぶんと、懐かしいことを」 「何故、あのようなところにおったのかはわからぬが――我はそなたを知っていた」 「あれは、俺が遠くへ行くと、おまえが知った日のことだ」  旭を抱きしめる腕に、力が篭る。 「まずは御所から出て支度をするよう言われたところに、紀仁(のりひと)と呼ばれていた幼い皇子が別れをするために乳母とともにたずねてきた。支度をしろといわれた屋敷は、ずいぶんと人が住んでおらず手入れもおざなりで、庭草などは好き放題に生えていた。雨上がりの庭で、紀仁は迷った。それほど大きな庭とは思えなかったが、幼子には広大なものだったのだろう。必死に呼ぶ声にこたえると、まろびながら草露に濡れた温もりが俺の腕に落ちた」  義直の頬が、旭の髪に触れる。 「これだけは失うまいと、心に決めた。けれど連れてゆけるはずもなく、眠るおまえを手放した。幼いおまえは活発で、後宮のあちらこちらに顔を出しては可愛がられていた。わが母の元へもよく参り、俺と遊んだ。そんなおまえが抜け殻のように、ただ日々を流すだけのように過ごす姿に、俺は哀れだと口にした。藤原博雅の好きにされるしかない紀仁が、哀れだと思った。それを聞いたものが、おまえの耳に入れた。――俺の後見人、橘森繁だ」  ゆっくりと、旭の頭が持ち上がる。 「朔宮は、俺の妻となるはずだった。だが、立太子したのは紀仁だった。くやしがる森繁に、上皇は俺をかくまうよう持ちかけたらしい。そのかわりに、娘を必ず入内させてやると請け負って」 「朔は」 「無論、何も知らない。密約は、上皇と森繁の間だけで交わされた。――わが母は、森繁の異母姉だったからな」  ぼんやりと寝物語を聞く幼子のように、旭は義直の唇を見つめながら真意を探している。その瞳に唇を落としつつ、義直は続けた。 「叔父上は関心が引けると思ったのだろう。思ったとおり、帝はその話に興味を示した。これで朔宮に通ってくれるのではないかと思った叔父上は、俺が他の公家に捕まり真相が明るみに出ることを恐れて、すぐさま様々なうわさを、調べる者たちの耳に入るよう流した。俺は好き放題にふらつきながら、時折手習いの真似事をして食っているような気楽な身であるから、うわさも現実味があるものになる。だが、当の俺がつかまらない。無論だ。うわさはあくまでもうわさであり、俺ではない。なれど、いつかたどり着くかもしれぬと、話した口が乾かぬうちに懸念した叔父上は、すぐさま上皇に相談をした。上皇は、もっと好きにうわさを流しておけと、心配は無用と言ったそうだ」  義直の唇は、旭の顔に降り続ける。 「そんな中、市で買物をしているときに幾度か話をしたことがあった牛飼いが、俺を探す任を受けたという公家を連れて屋敷を訪れたのだ。こんなところから居所がばれたかと思ったが、いずれ屋敷は見つかるだろうと予想をしていたし、渦中の人でありながら蚊帳の外という境遇に不満があった俺は、まさか相手が帝とは知らずに会うことにした」  そっと、義直の掌が旭の顔を包む。 「招き入れてみれば、成長をした紀仁の姿があった。よく似ているだけの者かと思ったが、俺がおまえを見間違えるはずはない。俺は時折、上皇の元へ招かれ几帳の影からおまえの姿を見ていたのだから」  ゆっくりと、唇が唇を押しつぶす。瞼を下ろし、開くと目の前に義直の瞳に移る自分が見えた。 「どれほど気持ちを抑えるのに必死だったか――知らぬふうをよそおうのに、必死だったか」  苦しげな義直の頬に、旭は指を添えた。その指を捕らえ、掌に口付けながら吐息のように繰り返し旭と呟く義直の唇が開かれ、口内に指を招かれた。 「ぁ――」  指の股を舐められ、柔らかく指を噛まれ、生まれでた甘い疼きに旭が小さく声を上げる。触れてくる舌を指で掴むと、強く吸われた。 「っ――ぁ」 「ずっと、影から見続けていた愛しい者が目の前に現れたのだ。触れずにおるなど出来るはずもない」  独白に変わった義直の声は、胸の(うち)を全て吐き出そうと苦しげに絞られる。 「何も知らず、何も覚えておらず、ただ好奇だけで俺の腕に再び落ちたおまえを帰すとき、どれほどの痛みを感じたか――翌日も来るのではないかと、屋敷の外に出て待っていたなどと夢にも思っていないおまえと共に歩いた市の、なんと輝いて見えたことか」  時折歯を食いしばる義直の唇から漏れる息が、呻きのように旭に響く。 「小松の戯言を本気に捉えたおまえの姿の、なんと愛らしいことかと我慢ならずに荒寺へ連れ込み体を暴いた浅ましさを、見抜かれぬように気を張ることがどれほど――――ッ」  ぐ、と奥歯を噛んだ義直の苦しげな顔に、旭の胸が痛む。 「誰の手にも奪われぬよう、この俺のみを求めるように仕立てたいと願った俺を、薄っぺらな理性で押し留めていた俺の本性を見抜かれ、それがゆえにおまえが来ぬようになったのだと、思った」  眉間に皺を寄せ、深く息を吐く義直を月光が照らし続ける。 「仏罰が下ったのだと、思った。――けれど、ひと目でも姿を見たいと思った俺は、ひそかに上皇に会う算段をつけた。そこで俺は、仏罰は俺ではなく旭に下ったことを、知った。いくら問うても上皇はおまえの行先を教えてはくれなかった。会いたくはないだろうと、全てを旭に伝えたのだと、言われた。体の芯から崩れたような気がした。おまえがどのようにそれを受け止めたのかが知りたくて、どのように感じたのかが聞きたくて――俺を恨んでいるのかと問いたくて、上皇に詰め寄った」  義直が、上皇の前で取り乱したのだろうか。自分の前で飄々としていた、この男が――。  旭はぼんやりと、そんなことを思った。目の前の義直の姿は、言葉は、自分が望み作り出した幻ではないのか。そうあって欲しいと願った自分の思いが(こご)り、月光が見せている夢ではないのだろうか。 「よしなお」  寝ぼけたような声が出た。やはりこれは夢なのだと思った旭は、薄く笑みを浮かべる。 「もう、かまわぬ」 「紀仁」 「ちがう」  ゆるく、かぶりを振る。 「旭」  頷いた旭は満足そうに息を吐き、全身を義直に委ねた。 「よい、夢だ」  つぶやき、瞼を伏せる。 「このまま、醒めることなくいたいものよ」  心地よい眠りの舟が、旭を揺らす。 「もう、疲れた」  すう、と呟きと共に旭の意識が夜気に溶け、温かく深い夢の世界へ連れて行く。しばらく見つめていた義直は彼を抱き上げ、褥に寝かせると用意されていた酒に手を伸ばし、月の映る杯を飲干す。 「夢ではない。――夢で、終わらせるものか」  その声は、義直の体内に深く沈んだ。

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