気付いた時には一人だった。 　ただ、似たようなボロ屋の並ぶこのドイド地区では孤児なんかたいして珍しいものではない。 　孤児なら孤児なりに似たような境遇の子供たちで小さなコロニーを作るもので、ルカも十六から乳飲み子までの数人が集まったコロニーにいつの間にか組み込まれていた。 　毎日年寄りの手伝いをしてクズ芋をもらい、夜中になれば農場に潜り込んでヤギの乳を搾る。決して楽な暮らしではなかったし、ひとつ間違えば命を落とすことだってある。それでも、それがルカにとっては日常だった。 「……ルカ兄ちゃん、また、本？」 「そう、また本」 　変わり映えのしない一日はあっという間に終わり、仲間の全員が床についた頃。壁の隙間から漏れる月明かりで薄ぼやけた文字を追っていると、横で規則正しく寝息を立てていたはずのニコが舌足らずに話しかけてきた。 　その声にはどこか咎めるような含みがある。七歳とはいえ物事をよく理解しているニコは、ルカがどこから本を調達しているのかきちんとわかっているらしい。街へ向かう荷馬車を手伝うふりをして、駄賃がわりに一冊くすねる。それくらいでしか孤児が本を手に入れることなんてできやしない。 　このボロ小屋で過ごす仲間たち──というより、ドイド地区では本を読むこと自体が珍しい。 　そもそも文字すら読めないやつの方が多いせいで、往来で本なんか読もうものならモンスターでも見るような目で見られる。おかげで、ルカは決して快適とは言えない微かな光で夜の読書に励むのが習慣になっていた。 「……きょうは、何の本？　魔法の本？」 「いや、今日のは……お医者さんの本」 「うわあ、むつかしそう」 　くふくふ、と満足げに笑ったニコはボロ布を口元まで持ち上げてまた静かに瞼を閉じた。本という楽しみを見出したルカ以外にとって、睡眠は何よりの娯楽だ。夢の中なら自由に空を飛んだり、金ピカの玉座に座ることだってできる。 　不揃いに伸びた前髪を払って、土埃で汚れた額にキスを落とす。ニコがいい夢を見られますように。そう祈ることだけがルカが七歳の少女にしてやれる精一杯だった。 　この国──ロンドマールは肥沃な大地と東の海から吹く穏やかな海風、豊かな緑の森……隣国からは大陸の秘宝だなんて呼ばれる恵まれた国だが、その土地や資源を求める他国との小競り合いも絶えない。 　おかげで常に高い水準を求められる王国軍は大陸内でも恐れられているし、今は数十代に一度生まれるという“龍王“の称号を持つ王が玉座についたことで王都周辺は平穏そのものだろうが、王都から少し離れるとグッと治安が悪くなる。 　国境付近での小競り合いに便乗して入国する人々の中には流れ者も多く、そんな無法者に犯された女がこっそり産んだ子供をドイド地区のような貧民街に捨てて行くのは何も珍しくはなかった。 　ルカも、ルカの仲間も、ほとんどがそんな理由で孤児になっている。 　栄養が足りないなりに伸びた長身、白金色の髪、灰色の瞳。どれが母親似なのか、父親似なのかすらわからなかったが、ルカにとっては些細な問題だった。 　これがたとえばΩだった、なんて言えば自分の出自を呪ったものだろう。だが、十六にもなって発情期が訪れる気配すらない時点でその可能性は限りなくゼロに近い。 　逆に、αの子供が産まれていたら貴族の家なんかに売ればかなりまとまった金になる。こんな所に捨てられた時点で自分がαではないことをルカはよく承知していたし、そもそもαもΩもかなりレアな存在だ。 　ふと、自分が唯一知っているΩのことを思い出して、ルカは小さくため息を吐いた。 　数年前まで同じコロニーに居た二つ年上の「シュカ」はまるで物語の登場人物のように美しく、賢い人だった。 　文字の読み書きも、爺相手に博打で巻き上げるイカサマも彼に習った。本当の兄のように慕っていたけれど、彼が自分をどう思っていたかは定かではない。 　なぜなら、ある日突然“王都に行く“と書き置きを残して彼は姿を消したからだ。 　書き置きを残したのは自分を信用してのことだろう、と当時は思っていた。他に文字の読み書きができるやつは居なかったし、ルカ宛なのは明白だった。それでも年月が経つにつれてシュカの記憶が朧げになればなるほど、彼がなにを考えていたのかわからなくなって……近頃ではすっかり思い出すのをやめた。 「……王都になにがあるんだよ」 　上等な紙の触り心地に、上等なインクの匂い。 　ずっしりと重い本に額をつけると、ささくれ立った心が落ち着いていく。 　瞼を下ろして呼吸を静かにすると、隣からも静かな寝息が聞こえて、余計に心が滑らかになるのがわかった。 　 　王都になにがあるんだよ。 　ここには仲間がいる、本も読める。土と草の匂いは嗅げるし、堅苦しい礼儀も必要ない。 　 　一つずつ丁寧に理由をつけて、王都への憧れを捨てるのはルカにとって簡単なことだった。シュカと離れてから何度も繰り返している。 　これくらい、朝飯前だ。