26 / 31
第26話
ユウヤの話
恋人でもなんでもないのに、気分が落ち込みすぎてやばいと思って呼び出した相手が、うちの台所でパスタを茹でている。
彼の上着をハンガーにかけた後、僕はソファーに腰かけて外を見ていた。ソファーからは台所は見えない。
カっとしてさんざん帰れと言ってしまった癖に、冷蔵庫を開けて「作ります」って微笑まれて、怒ったり怯えたりしてないのかと拍子抜けしてしまった。
冷蔵庫には朝飯用の卵とベーコンと牛乳くらいしか入ってなかったはずだけど、何を作っているのだろう。
「できましたー、ユウヤさん?」
呼ばれて、部屋に満ちている匂いに気が付いた。コショウと、チーズ系の匂いに食欲をそそられて思わず顔が緩んでしまいそうになる。でもそんな間抜けな状態を見せたくないから表情を変えないようにしてテーブルについた。
テーブルにはカルボナーラが湯気を立てていた。薄ピンクのベーコンが入ったパスタとソースの白のせいで視界が急に明るくなった気がする。
「あの、パスタだけですけど…、冷めないうちにどうぞ」
さすがに驚いた。作るって言ったから料理できそうな感じはしたけどさ。
目が合うと星崎くんがちょっと得意げに笑っていた。
「何もないと思ってたのに、凄いね」
「うち、親が共働きだったので妹と一緒にいろいろ作ってたんです。あ、コーヒーのクリーマーを結構使っちゃいましたけど大丈夫ですか?」
「クリープを?」
大丈夫も何も確か3ヶ月前に賞味期限が切れていたはずだと思い出して表情を崩すと、白々とした照明の下で目を細めて綺麗に笑う星崎くんがいた。遠く離れた国の安宿の屋上でちょっかいを出した子と僕の部屋で ご飯を食べている事の現実感がなさ過ぎて、頭の中でヒューズが飛びそうになる。
あー、こういうの、駄目だ。今がいつで、どこにいるのか混乱して、幸せかもしれないって勘違いするじゃないか…。
黒コショウのよく効いたカルボナーラを食べた後、台所で2人並んで洗い物をしている時にどちらからともなく視線をあわせた。
そのまま今日一日の事を全部忘れたみたいに星崎くんの顔が近づいてきて唇が重なった。さっきのパスタの柔らかい味が残る咥内でゆっくりと舌を絡めていると、気持ちがずるずると解けてちゃんと立っていられなくなり、シンクに突っ伏してしまった。
やっぱだめだ、感情のリミッターがバカになってる。
「大丈夫ですか?気分でも悪い…」
屈みこんで顔を見上げてきた星崎くんが言葉を切った。
自分の目から液体があふれ出ていた。悲しくて泣いてるわけじゃないから、嗚咽はしないけど、ぼたぼたととめどなく流れる。それを黙ってみている人がいる。
横から黙って差し出されたタオルハンカチで涙を拭いた。その間に持ってきた椅子に僕を腰かけさせて背中を撫でてくれた。
「…あのさ、さっきの暴力の話、嘘じゃないから。したこともあるしされたこともある。束縛して、モラハラまがいになって、恋人の…相手に殴られたこと…ある」
「はい」
頭上からは、ちゃんと聞こえている事だけを伝えてくるような淡々とした声で短い返事が返ってくる。
「…プレッシャーが強くなるとすごく落ち込んで、自分がコントロールできなくなることもある。薬も飲んでた」
「はい」
「昔の嫌な思い出が時々出てきて…暴力的な衝動…暴力的な攻撃をしたくなる…ことがある。…最初会った時も、今回も…」
「はい」
「思っている事をうまく伝えられなかったり、いろんなことから逃げ出した…」
「それは…誰でもですよ」
笑いの混じった声でやさしく遮られた。
ともだちにシェアしよう!