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第一章・魔王と王妃8

「エミリアは王妃様のお役に立てていますでしょうか。男手一つで育てた娘ですので、王妃様の目に余ることもあるでしょうがどうぞよろしくお願いいたします。エミリアの王妃様への忠誠は信じていただけるものです」 「もちろんです。私のほうこそエミリアには感謝しています。エミリアはほんとうによく働いてくれていますから」 「そう言っていただけて安心しました。エミリアは王妃様からお役目をいただいたことが嬉しかったようです。毎日張り切ってますよ。それに、その役目は市井の魔族にとっても有りがたいものでした」 「みなさんに喜んでもらえて私も嬉しいです。でもまだ足りません。これからもエミリアには難題をお願いすることになりますが、彼女ならばきっと役目を果たしてくれるでしょう」  そう言ってブレイラが淡く微笑んだ。  現在ブレイラは王妃の政務のなかでも貧民区や孤児への支援に力を注いでいた。  当代魔王ハウストの統治は魔界に繁栄と豊かさをもたらしたが、それでも貧民区がなくなることはない。どれだけ世界が豊かになってもそこには理不尽な不幸と不運がある。  しかし王妃ブレイラはそんな豊かさから取り零された者たちを救おうと、エミリアをはじめとした直属の女官たちに命じて食料や生活物資の支援活動をしていた。  歴代王妃の中にも同じような活動をする王妃はいたが、ブレイラほど心を砕いて熱心に働く王妃はいなかった。それはブレイラ自身が孤児で不遇の子ども時代をすごしたことも理由だろう。  ブレイラは今まで支援が行き届きにくかった地方まで気を配り、そのおかげで浮浪者同然だった魔族も物乞いをせずに生きられるようになってきたのだ。  それは酒場の店主という市井の目線から見ても王妃の慈愛を感じることができるものだった。  だが、もちろんすべての魔族が恩恵を受けられているわけではない。実際、境遇に不満を持っている魔族がいるのもたしかだ。  しかしそれは足裏に吸いつく自身の影のようなもので、決してなくなることはない。  どれだけ世界が繁栄を謳歌しても、理不尽な不遇・不運・不幸はついてくるものである。それは深い底なし沼のようで、その全貌は複雑だ。そのすべてに光が差すなど不可能。それは奇跡に等しい神の御業のようなものである。  だから王妃は『まだ足りない』と言うのだ。 「この時代の魔族は幸せです。貴方様が我々の王妃であることを幸運に思います」 「光栄です。魔族の方々が私を魔界の王妃にしてくれたのです」  受け入れてくれたから、認めてくれたから、王妃はそう言った。  魔王が王妃に迎えればそれだけで王妃だというのに、ブレイラはそれでよしとしない。  店主は息を飲んで、ゆっくりと長い息を吐いた。  当代王妃ブレイラは清廉で高潔だ。『まだ足りない』と全能を求めるほどに。それは眩しいほどに。  それは魔族にとって誇りである。  しかし店主は知っていた。高潔さとは危ういものであると。  店主は一抹の不安を覚えたが。 「ブレイラ、みてください! おそらのほしで、えがかけるんです。これって、せいざっていうんですよね!」 「そうですよ。ふふふ、これはケーキの形をしているように見えますね」 「おいしそうです」  クロードが教本を見ながら言った。  するとゼロスも覗きこんで笑いながら指さす。 「これなんか戦ってるみたい。父上と兄上ってことにしとく?」 「しとくってなんだ……」 「お前な……」  イスラとハウストが呆れた顔で言った。  四人が騒がしく言い合う真ん中でブレイラが楽しそうに笑っている。  それはどこから見ても平穏な家族の光景だ。  その光景に店主も穏やかな気持ちになって目を細める。  それは陽だまりのように穏やかで、穏やかで、店主が感じた不安に霞をかけたのだった……。 ◆◆◆◆◆◆  その日の夜。  晩餐会後、私は入浴を終えてクロードを寝かしつけました。  クロードは五歳になって一人で眠れるようになりましたが、入眠する時はまだ添い寝が必要なのです。  以前、ゼロスと張り合って一人で寝ようとしたことがあったのですが、なかなか眠ることができませんでした。ずっと我慢していたクロードですが、夜中にとうとう耐え切れずに私とハウストの主寝室の扉をノックしたのです。 『……あの、ブレイラ、おきてますか?』  少しだけ開いた扉、その細い隙間からクロードがおずおずと覗きました。  ベッドにいた私とハウストは思わず顔を見合わせてしまう。自分の寝所に入っていくクロードはとても自信満々だったので。  でも今は恥ずかしそうに視線を泳がせて、とってもおどおどな様子。  ハウストは呆れたように天井を仰ぎましたが、私はすぐに手招きしてあげました。 『こちらへどうぞ』 『っ、ありがとうございます!』  クロードは顔をパァッと輝かせてぴゅーっと駆けてきました。 『ゼロスにーさまにはないしょにしてください』 『ふふふ、分かりました。でもゼロスもあなたぐらいの時に枕をもって私たちのところに何度も来ましたよ?』 『そうなんですか!? にーさま、わたしにはずっとひとりでねてたっていったのにっ』  そう言ってクロードはプンプンしました。  でも私とハウストの真ん中に入ると、すぐにうとうと……と瞼が重くなる。あっという間に眠っていきました。安心したら一気に眠気に襲われたのでしょうね。  その時のことを思い出すと私は小さく笑ってしまう。  側近の女官たちに見送られ、私もハウストとの寝所に入りました。本殿の主寝室です。 「ハウストはまだ戻ってないようですね」  寝所には誰もいませんでした。  きっと政務が長引いているのでしょう。  祝賀式典中は祝日ですが魔王の政務に休みはありません。フェリクトールから急な知らせがあったのです。  私はハウストを待っていようとバルコニーに出ました。  心地よい夜風が肌を撫でて、口元が無意識にほころびます。  私はバルコニーから王都を見渡しました。城の高い位置にあるので王都の街並みを見渡せるのです。  夜も深い時間ですが王都は昼間のように明るいままでした。賑やかな声がこちらまで聞こえてくるよう。式典期間中の王都は眠らぬ街となっているのです。もしかしたらイスラとゼロスは遊びに行っているかもしれません。イスラはともかくまだ十五歳のゼロスに夜遊びは早いですよね、帰ってきたら注意しなければ。  私は王都を見渡して、その一角で視線を止めました。  そこは王都の貧民区がある区域でした。以前は夜になると真っ暗になっていましたが、今ではポツポツと明かりが灯っています。  まだ小さな明かりだけれど、そこで暮らす魔族の営みを感じて目を細めました。  でもまだ足りませんね。寒くて暗い場所で独りになってはいけないのです。  こうして小さな明かりを見つめていると、ふわりとした温もり。背後から肩にカーディガンをかけられました。 「こんな所にいたのか。冷えるだろ」 「ありがとうございます」  ハウストでした。  政務を終えて来てくれたのですね。

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