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第4話

 アンドレイは暗い庭で、無心に黒薔薇を咀嚼していた。月の光だけが閉じられた庭を照らしている。オアシスから離れたここには、人里の明かりは届かない。  憑かれたように薔薇を喰んでいたアンドレイは、ふと我に返り、夜空にかかる白い月を見上げた。 「満月……」   黒い汁で汚れた口元を布で拭い、彼は白い砂の上に転がった。そして、そのままぼんやりと夜空を眺め続けた。 「ああ、満月なんて嫌いだ。今年が111年目なんですね」  呟いて、アンドレイは目を閉ざす。そして、大きく息を吐いた。そのまま身じろぎもせず、彼は冷たい砂漠の空気に身を晒し続けた。  ゼノンは夜景の時に持たされる非常袋を壁に戻し、大きく伸びをした。若いうちから真面目に働け、と祖父に言われたので、彼はその通りに軍隊に入り、こうして言われたように夜の見回りをこなしている。 「眠い……」  夜警は誰もやりたがらないが、大事な仕事だと先輩が言う。自分より偉い人が「正しい」「大事なことだ」と言う事を反復していれば、他の事には少々目をつぶってもらえることを、彼は24年の人生を通して学んでいた。  ゼノンはオアシスの都で一、二を争う大工の息子だ。父は大柄で力の強い彼に大いに期待し、幼い頃から大工の術を教えた。だが、根気良く教えても、ゼノンはまるで釘が打てなかった。何度怒鳴られ、教えられ、励まされても、正しく打てない。彼の打つ釘は間違った場所に、歪んで刺さるばかりだった。  ゼノンはひたすら押し黙り、叱られるたびに「釘の打ち方が頭の中で溶けて行く」と繰り返した。父はついに息子を大工にするのを諦め、彼を勘当した。『やる気のない奴は出て行け』と。ゼノンは蹲り、祖父が残した老いた猫を撫でながら父の言葉を聞いた。簡単だと言われる事が出来ない己を責め、理不尽な苛立ちを抱き、目指したくもない大工を目指す日々に、彼もまた疲れ切っていたのだ。  自分は女を愛せず、釘も打てない。あの頃の彼は小さな棘だらけの箱に自分自身を押し込め、ひたすら痛みと息苦しさに耐えていた。 「おい、一杯ひっかけて帰ろう」  ゼノンは、その声で我に返った。先輩軍人が顎をしゃくり、小さな安い酒屋を指す。  一年前の夜、この酒場の軒先で、気だるげに空を見上げていたアンドレイの姿をゼノンは思い出した。  『あれはよそ者の教父だよ、関わらない方がいい』同僚にそう耳打ちされた時、ゼノンの心に何か得体の知れない熱が生じたのだ。あれほどに美しいのに悪く言われているなんて、『よそ者』だという彼は何者なのだろう……と。  ひとり、凛として空を見上げていたその人のことをもっと知りたくて、ゼノンはある朝、砂漠にあるボロボロの教会に押しかけた。よそ者の教父はそこにいる、と街の人に聞いたから。  『別に、私はただの異国人ですよ』そう言って薄く笑ったアンドレイの顔を、ゼノンは今でも鮮やかに覚えている。来たければいつでも来ればいい、と彼はゼノンに告げ、何かを悟ったように、彼に口づけを一つくれた。  あの日からゼノンは彼に溺れ、『よそもの』を愛する権利を得るために、人の嫌がる仕事を買って出ている。人の望み通りに振舞うことは、ゼノンにとっては心の自由を贖うための対価だった。 「面倒くさいな。明日は防砂工事だぜ」 「うん」 「炎天下で砂漕ぎだ。ゼノン、飲みすぎるなよ」 「うん」  花の香りのする強い酒を飲み干し、ゼノンは口元をごしごしと拭った。  全ての花の香りは、どこかアンドレイの匂いに似ているとゼノンは思った。アンドレイは彼に『皆に倣え、皆と同じようになってくれ』などと絶対に言わない。彼の『何も偽らずにただ愛したい』という心を受容してくれる。 「僕、もう帰ります」 「なんだよ付き合い悪いな、女か?」 「ええ、まあ」  曖昧に肯定し、ゼノンは先輩に背を向けた。聖職者であるアンドレイの足を引っ張るようなことはしない、それだけが今の彼の行動指針だ。なかなか素敵な決まりだと彼は思った。  夜の砂漠を渡り、寒さに震えながらゼノンは教会の門扉を押した。いつものむせ返るような薔薇の香りが彼を包み込む。 「ただいまー」  庭を見回したゼノンは、砂の上に転がるアンドレイの姿を見つけて歩み寄り、傍らにそっと屈み込んだ。 「ねえ、アンドレイ。また薔薇に酔ったの?」  その声に、アンドレイがとろんとした目を開いた。 「ああ……おかえりなさい」  ゼノンは微笑み、大きな体をごろりとアンドレイの傍らに横たえた。 「砂、あったかいね、外は寒いけどさ」  そのまま手を伸ばし、きらきらと光を振りまく銀の髪を手に取り、ゼノンはその一房に口づける。 「ねえ、薔薇もっと食べる?」 「ええ、頂こうかな……」 「よし!」  ゼノンは跳ね起き、手を伸ばして零れんばかりに咲き誇る黒薔薇を摘む。低い艶のある声で不思議な歌いながら、次々に大振りの花を摘み取った。 「ゼノさん」 「ん?」 「また変わった歌を。何の歌です?」 「二歳の頃、海の向こうから来た人たちが歌ってた歌……だと思うよ。母さんと見に行ったんだ。その時聴いた歌」  何でもないことのようにゼノンが答える。アンドレイは苦笑し、月の光を遮るように、手の甲で目を覆った。 「相変わらず歌の宝箱ですね、貴方は」

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