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第5話

「ねえ、アンドレイ」  たくましい半身を晒し、頭を布でふきながらゼノンが言った。 「はい」  分厚い本をめくりながらアンドレイが生返事をする。眼鏡越しに目を凝らし、彼は何かを真剣に読んでいた。教会から『勉強しろ』と配布された本なのだろう。 「あのさ、あのお祈りする部屋に置いてある棺みたいな箱、何なの。前から気になってたんだけど」  ゼノンの問いに、アンドレイは事も無く答えた。 「棺ですよ、正解」  空色の目を見開いたゼノンを振り返り、アンドレイは眼鏡を外して微笑んだ。 「棺です。中身も入っているそうです」 「中身……」  ゼノンが、明らかにひるむ。しかし取り合わずにアンドレイは続けた。 「魔人が中で眠っているそうです。今はその『魔人』を封じる方法をお勉強中なんですよ、ばかばかしい。魔人は扉を引くことが出来ない。よって、魔人を封じた場所の扉はすべて『引いて開ける』ようにせねばならない。一方、魔人の侵入を防ぎたい場合は『押して開ける』ようにせねばならない……ですって! ああ、覚える端から忘れていきます」 「……魔人、こわいね」  上目づかいで呟いたゼノンに、アンドレイが励ますような口調で言った。 「でかい図体してなんですか! 怖くないですよ。あれが目覚めた瞬間に、私たちは砂になるそうですから。怖いと思う暇もないでしょうね」  ゼノンの分厚い滑らかな胸板に、つーっと汗が伝い落ちた。  ドーラは、砂礫の大教会と呼ばれる壮大な伽藍で、うずくまって震えていた。 「わざわざ神聖教国の総本山から来ていただいた魔祓い師なのですよね、ドーラ殿は」  中年の男が唾を飛ばしてわめく。 「それが『恐ろしくて中を確認すらできなかった』とは何なんです! ええい、総本山ももっとまともな魔祓いの者をよこしてくれればいいのに、こんな小娘に何ができるというんだ」 「お、恐れながら、教会長どの」  ドーラが震えながら顔を上げた。 「ご自分で確認されては如何です……あの教会の中から、確かに魔人は私を見ていました。魔人はもう目覚めつつある……あんな恐ろしいもの、恐ろしいっ……あれに接してどこの誰が正気で居られるというのでしょう」 「……っ」  教会長と呼ばれた男が顔をゆがめる。それから吐き捨てるように言った。 「馬鹿を言うな、私は魔人に対峙する訓練など受けておらん! あそこの教父は外部からの志願者で、出自も知れない端下者だし、あんたは何の役にも立たんときた! 誰が私を……いやこのオアシスの小国を守ってくれるというのか」  教会長がウロウロと歩き回り、壮麗な伽藍に似合わぬ焦りのにじんだ声で続けた。 「ああ、翼ある神よ、魔人がこの世に復活する! 『黒薔薇の聖者ヴィクトル』の封ぜし魔人が、緑豊かな大地を砂漠に変えた恐るべき魔人が……!」  教会長は呻き、うずくまり、脂ぎった髪をかきむしって叫んだ。 「今年がヴィクトルの封印から111年後、ああ、聖なる黒薔薇が枯れ、魔人が目を覚ます……助けてくれ、どうか、誰か」  その時、扉が外から引かれ、ゆっくりと開いた。取り乱していた教会長とドーラが弾かれたように顔を上げた。 「た、大変でございます! 総本山より教王様がお見えに……!」  黒薔薇の縫い取りの入った衣をまとった若者が、押し開いた巨大な扉の間から滑り込み、真っ青な顔でそう告げた。  ゼノンはそっと、小さな礼拝堂に踏み込んだ。普通の、オアシスの教会にあるのと変わらない礼拝堂だ。  だが部屋の横に『邪魔な荷物を置きました』とばかりに、長々と石の箱が置いてある。その上にはアンドレイの私物と思しき本やボロボロの服、鞄やバケツなどが乱雑に置かれていた。おそるべき魔人が中に眠っているとは思えない雑な扱いだ。あの話は本当なのだろうか。 「えっと……」  もし、馬鹿力の自分がいない間に、魔人が起きてアンドレイを襲ったら困る。ゼノンはそう思い、音をたてないようにゆっくりと箱、否、棺の前に屈みこんだ。 「…………」  じっと見つめるが、ただの石の箱にしか見えない。箱と重そうな蓋の間にはわずかに隙間も空いていて、中身は既に外気に触れていそうだった。 「…………」  ゼノンはゆっくりと視線を動かし、床の様子を見た。古びた石板を敷き詰めた床だ。高級な石材で、新しいうちは硬く滑らかなのだが、この教会の床は古くてもう表面がさざれている。  ――まだ、大工修行で習った事を覚えているのだ。ゼノンはその事にほろ苦く笑い、頭を下げて床を確かめた。  床には、この棺を引きずった跡がうっすら残っている。棺はずっと祭壇前に置かれていたのだろう。だがこの場所に押しのけられたのだ。硬い石に傷が残っているのは、棺が重すぎたからに違いない。 「アンドレイには動かせないよね、僕でも動かせるかどうか……」  呟いて、ゼノンは立ち上がった。それから思い出したように、そっと耳を棺に近づける。中からは何の音も聞こえなかった。 「寝息も聞こえない……」 「何の寝息です?」 「わー!」  飛び上がったゼノンに、アンドレイが呆れたように言った。 「ゼノさん。何を遊んでいるんですか?」 「あ、あの、中身、魔人……」  しどろもどろのその言葉に、アンドレイはわざとらしくため息をついて首を振った。 「それの中身は気にしなくて結構。さあ、さっさと仕事に行ってください」

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