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第7話

「魔人かぁ……」  ゼノンは棺の前に蹲って呟いた。アンドレイと甘いひと時を過ごして我を忘れていたが、この教会には危険な魔人が居るという。恋人が自分のいないときに危険にさらされるなど、彼には耐えられない事だった。 「よし」  中身を、オアシスの中央にある『砂礫の教会』に置いて来ようとゼノンは思った。彼の両親は『砂礫の教会には神に近い偉大なお方がたくさんいる』と言い、毎月のように莫大な喜捨を行っていた。そんな素晴らしい場所であれば、きっと魔人とやらもどうにかしてくれるだろうとゼノンには思えた。 「……っ」  力を込めると、重い石のふたがゆっくりとずれる。恐る恐るろうそくを掲げてゼノンはその中を覗き込んだ。泥水よりももっと不透明な闇が、その中に蟠っているように見えたのは、果たして彼の錯覚なのか。 「え……」  小さな炎が照らし出したものを見て、ゼノンは思わず声を上げた。淡く浮かび上がった『それ』は、彼の予想していた化け物ではなかった。     「ご安心下さい。総本山では、ごくまれに魔人の封印を取り扱うことがあります」  伽藍に響くにふさわしい朗々とした声がそう告げた。  月の光が差し込む『長の座』の傍ら、翼ある神の像を背に佇んでいるのは、この世の物とも思えぬほどの美貌の青年だった。  白金の長い長い髪に、緑の瞳。翼神教の最高責任者、教王イノツェンツィの威厳の前で、砂礫教会の教父たちはみな頭を上げることも出来ずに床に蹲る。  教王イノツェンツィは伝説の存在だった。いついかなる時も、常に若く美しい姿で人前に現れる。定期的によく似た容貌の若者が選ばれ、教王の座に据えられるという噂であるが、少なくとも教王の御前で蹲っている七十代の男は思っていた――教王様は、自分が幼子のころに拝見したお姿と、微塵も変わらぬご様子であられる……と。 「今回の例も同じですが少々厄介です。この大地の半分を砂に変え、聖人ヴィクトルに封じられたという『砂礫の魔人』。そしてこの砂礫の教会は、それを監視するために作られたもの。……封印された魔人はどこに居ますか」  『白百合』の縫い取りがされた輝く意匠の裾を払い、長の座に腰かけながら教王が言う。  教王の柔らかな声に、全員がびくりと肩を揺らした。 「ドーラ」 「は、は、はい!」  裏返った声で返事をした女性の魔祓い師に、教王は優しい声のまま尋ねた。 「おや、砂礫の教会の衣装を借りたんですか、懐かしい。黒薔薇紋の宗教衣とは」 「え、ええ」 「砂漠は特殊な気候ですからね。ところで魔人は? どこに安置されているのですか?」 「あ、あの……」 「ふう、そんなに怯えて。仕方のないひとだ」  教王がゆっくりと金細工で飾られた腕を上げ、頬杖をつく。そして、やや冷たい声でもう一度繰り返した。 「早く封印された魔人をここへ連れてきてください。時間はもうそれほどありません」  教王の緑の瞳から、慈愛の光は消え失せていた。  アンドレイが目を覚ますと、ゼノンは一足早く起床していた。花瓶のような安っぽい入れ物に、大量の黒薔薇の花を活けてあるのに気付き、彼は目を丸くする。 「おはよう!」  笑顔のゼノンに、アンドレイは頷いて「おはよう」と繰り返した。それから手を伸ばして薔薇を一輪手に取る。 「ふうん、井戸水に活けておいたんですね」 「そう!」 「頂きます」  頬杖をついたゼノンに見守られつつ黒薔薇を咀嚼し終え、アンドレイはもう一輪を手に取った。 「……悪くないです、目が覚めたら朝食が並んでいるなんて」 「あはは」  ゼノンが子供のような笑い声を立て、薔薇の香りの残る恋人の唇に口づけた。 「気に入ってくれたなら嬉しいよ。良かった。花瓶を買って来た甲斐があった」  明るい笑顔に、アンドレイがほんのわずかに頬を染めて目を逸らす。 「あ、照れた?」 「誰が」 「アンドレイがだよ」 「いいえ」  つっけんどんに答え、アンドレイは手にした黒薔薇に噛み付き、口いっぱいに頬張った。 「そうだアンドレイ、あれ、捨ててきたから」 「……?」  黒薔薇を頬張ったまま首を傾げたアンドレイに、ゼノンが満面の笑顔で告げた。 「棺の中身!」  それは、思いがけぬ言葉だった。凍り付いたように動きを止めたアンドレイの前で、ゼノンが晴れやかに続けた。 「砂礫の教会の前に捨ててきた。きっとお偉い様が何とかしてくれるよ。それにしても驚いた。魔人ってあんな姿なんだね」  楽しげな表情で、果実をもてあそびながらゼノンは続ける。 「あの『楽譜』から出てくるのかなぁ、魔人が」  楽譜。その言葉を聞いた瞬間、アンドレイの秀麗な面から血の気が引いた。 「……ゼノさん」 「ん?」 「あの楽譜、捨ててきたんですか……」 「うん」  こともなげなゼノンの返事に、アンドレイは息をのんだ。紅色の瞳に陰が差し、澄み切った色合いをじわじわと濁らせてゆく。 「そんな! あれは」  言いかけたアンドレイの言葉にかぶせるように、妙に強い口調でゼノンは言った。 「魔人なんでしょう。僕が居ないうちに暴れたらアンドレイが危ないから」  たくましい腕を伸ばし、寝癖の残ったアンドレイの頭を抱き寄せて、ゼノンが心の底から幸せそうに言った。 「もう大丈夫だよ、僕がアンドレイを守ってあげる、ずっと、一生」

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