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第8話

 ――我が愛するアンドレイに捧げる。  石棺の中の楽譜には、そう書かれていた。ゼノンの頭の中で、先ほど目にした音階が、歌詞が、音の奔流となってうねり始める。  あの歌は、作曲の手法さえ知っていれば、ゼノン本人がアンドレイに贈りたいような素晴らしい愛の賛歌であった。  『……冷たくても本当は優しい人、その美しい銀の髪は月の光を梳いたよう。君たちのような存在を、私は知らない』  耳をふさぎたい気持ちでゼノンは歯を食いしばる。彼がアンドレイを恋うる気持ちをそのまま音楽にしたようなあの楽譜。あれを贈ったのは、誰だ。 「拾いにいかないと」  青ざめた顔で、アンドレイが身をひるがえした。ゼノンは慌てて手を伸ばす。 「待って!」 「……っ」  腕を取られたアンドレイが、きつい目でゼノンを睨んで叫んだ。 「何てことをしてくれるんです! あんな本に魔人が封じられている筈がないでしょう?!」  腕を振り払い、アンドレイが駆け出す。巨大な鉄格子の門を蹴りつけ、空いた隙間に身を滑り込ませたアンドレイにしがみついて、ゼノンは叫んだ。 「拾いにいかないで」 「離しなさい!」 「拾いにいかないでよ!」  ゼノンはそういって、アンドレイの肩を大きな手で掴んだ。いつも沈着な彼が度を失っている事すら、嫉妬に駆られたゼノンは気づくことが出来なかった。 「拾いにいかないで、何だよあの歌。頭の中で鳴りやまないよ」 「ゼノさ……」 「あんな歌を大事にしないで! あんな歌知りたくなかったよ!」  ゼノンの日に焼けた頬に涙が伝う。それを乱暴にぬぐってゼノンは叫んだ。 「あんな歌大事にしないで、お願いだから」  アンドレイが、青ざめたままゆっくりと首を振った。そして濁ったままの紅の目をそっと伏せる。 「……あの楽譜を私にくれた人は、もういませんよ。その人の思い出は、もうあれしか残っていないのです」  透徹した陽光が、二人の姿を余すところなく照らす。ゼノンの目に流れた涙が乾き、激しい熱がじりじりと二人から体力を奪った。  ゼノンが途方に暮れたようにうつむき、砂に埋もれた靴を見つめる。 「……アンドレイ」 「何ですか」 「ごめんね、本当は捨ててない……今度砂礫の教会に置いて来ようと思って、俺の鞄に入ってるんだ」  ――次の瞬間、ゼノンの頬がぱん!と鳴った。 「馬鹿!」  恋人を叩いたアンドレイの紅の瞳は、隠しようのない激情に染まっていた。     「魔人の確保には、私が参ります」  銀糸の白百合の総縫いの衣装を捌き、教王イノツェンツィがつまらなそうに言った。黒薔薇紋の衣装をまとった人々が右往左往する中を、教王は滑るように進む。砂漠の暑さの中、汗ひとつ浮かぬ白い肌。白金の髪が強い光を跳ね返して、それ自身が太陽のような色合いを帯びた。 「教王猊下……あの、危険です」 「そうですね、足手まといが多ければ多いほど危険でしょうね。誰も付いてこなくて結構……」  おろおろする人々を背に、教王はオアシスの小さな門を出て、白砂の砂漠へと踏み出した。 「げ、猊下」 「二度は言いません。共は不要……私にも、砂礫の魔人の怒りから、足手まといを守る余裕はありませんから」  豪奢な衣の重さもものともせず、教王、否、一人のイノツェンツィという人物に戻った彼は砂漠を歩き続ける。日の光を遮ろうともしなかった。彼の新緑のごとき緑の瞳に、陽炎に揺らめく小さな黒い建物が映った。 「…………」  イノツェンツィの完全な弧を描く唇が、ふとほころぶ。その笑顔はさながら、母を見つけた幼子のようだった。 「黒い薔薇だ、懐かしい」  初めて感情を得た人形のように、イノツェンツィが身軽な動作で白百合の衣を脱ぎ捨てる。厳粛な長衣の下に隠されていた、無駄な肉ひとつなく鍛えられた腕が、胸が、白日の下に晒される。風に巻かれた白い衣が砂漠に落ちると同時に、イノツェンツィは生き生きとした口調で言った。 「ああ、やっとここに来られた。自由のない身のなんというつまらぬこと、私の望みなど、貴方の眠りに添うことだけだったのに」 「ごめん」  楽譜を胸に抱いてうつむくアンドレイの背中に、ゼノンはそう言った。 「本当にごめん」  アンドレイは応えない。ゼノンの頬はわずかに赤く腫れていたが、彼はその傷を手当てしようとはしなかった。 「……少し頭を冷やしたいので、今日は帰ってください」 「わかった……」  ゼノンは素直に応じ、萎れきった気持ちで鞄を肩に担ぎあげる。嫉妬に突き動かされて動き、得たものは後悔だけだった。なぜあのようなことをしてしまったのか、今になってみればわからないと彼は思う。失いたくないが故の愚行で、彼を失うのか。ゼノンの心にひびが入り、その日々がだんだん大きな割れ目となって、その先に虚無を覗かせる。  棺の中の楽譜は、一体誰の歌なのだろう。完全にゼノンの心と重なっている歌詞が、流麗な音階が、ゼノンにとってはとてつもなく恐ろしく感じる。作り手の愛情を思い知らされるぶん、怖いのだ。  ――自分はアンドレイを失うのだろうか。よろよろと足を進める歩むゼノンの視界に、白金の陽光のような髪が翻った。 「こんにちは」  銀の鈴のような声だった。目を見張ったゼノンに、その声の主である美しい男が微笑みかける。 「巡礼の方? あの黒薔薇の教会に御用がありましたか」 「え、ええ」  我に返り、ゼノンは微笑みを浮かべて、その長い髪の男に答えた。 「時々教父様のお使いを頼まれる雑役夫です。奉仕作業をするよう両親に言われて」 「そう」  男が、ゼノンの言葉に破顔した。白金の髪が砂混じりの風にさらわれ、強い日差しできらきらと輝く。 「それは結構なことです、教会へのご奉仕、心より感謝いたします」  白い手を引き締まった胸に当て、男が新緑のごとき瞳に慈愛に満ちた光を浮かべた。そして、ゼノンに背を向けて去ってゆく。 「教会の方かな」  ゼノンは首をひねり、痛む頬に手を当てた。美しい彼はゼノンの知るような教会の宗教衣を纏っていない。だが、その一挙一投足は気品にあふれ、彼がただの人間ではない事をゼノンに伝えた。

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