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第9話
扉を押して入って来た男の姿を認め、アンドレイは凍り付いた。
己よりもわずかに背の高い人物を呆然と見上げ、アンドレイはかすかに首を振る。胸かきむしられるほどに懐かしい姿がそこにあった。かつてともに暮らし、ともに過ごした懐かしい姿が。
「久しぶりです」
「嘘……だ……」
「嘘ではありません」
薄暗い部屋の中でなお光を放つようなイノツェンツィが、立ち尽くすアンドレイを抱き寄せる。
「会いたかった、兄さん」
アンドレイの耳に唇を寄せ、イノツェンツィはアンドレイの銀の髪に頬をうずめた。
人形のように抱き寄せられたアンドレイの紅の瞳から、涙が一すじ流れる。唇を震わせ、彼はようやく言葉を絞り出した。
「……イノ……」
「そうです、イノツェンツィです」
アンドレイがようやく今起きていることを理解したように、男の背に腕を回して力を込めた。
「イノ! ああ、よかった、無事だったんだね! 生きていて良かった!」
「ええ、ええ」
いつの間にか、アンドレイを抱くイノツェンツィの白金の髪は月のごとき銀に、新緑のごとき緑の瞳は澄み切った真紅に変わっていた。
『兄さん』と同じ色の瞳から滂沱と涙を流し、イノツェンツィは絞り出すような声で呟いた。
「本当に、本当、に、会いたかった、兄さん……」
薄暗い、狭い自分の部屋に戻って、ゼノンは寝台に転がってぼんやりと天井を見上げていた。頭の中では、アンドレイに捧げられた美しい旋律が繰り返されている。幼いころから一度聞いた歌は忘れず、楽譜を見れば楽曲が頭の中を駆け巡る。歌と共に在れることはゼノンの幸福の一つだったが、今はその才が彼を苛んでいた。
『……冷たくても本当は優しい人、その美しい銀の髪は月の光を梳いたよう。君たちのような存在を、私は知らない』
ゼノンは、ふとあることに気づいて顔を覆う腕を上げた。
『君たちのような存在』。あの美しい旋律ははっきりとそう歌っていた。ひょっとしてあの歌を捧げられた人間は複数いたのだろうか。嫉妬に狂った彼の頭は、己に都合のよい解釈だけをしていた。しかしあの歌は、本当にアンドレイだけへと捧げられた恋の歌だったのだろうか……。
「僕……に……」
呟いて、アンドレイは砂のように重い体を起こした。
「僕にとっての魔人は、あの楽譜を書いた人だった」
ゼノンアンドレイの心を奪う誰か。この小さなオアシスで身も心も縮めて生きてきたゼノンにとって、アンドレイは愛することを許してくれる唯一の存在だった。一度伸ばした羽根は、もうちぢみたくないと悲鳴を上げている。かつての苦しみをなぞらせようとする存在は、ゼノンにとっては『恐ろしい魔人』そのものだったのだ。
「馬鹿なことをした」
愛を独占したかった。
そう認めた瞬間に、ゼノンの目から涙が流れた。その涙に呼応するように、窓の外から雨音が室内に忍び込んだ。
ゼノンは涙を流したまま起き上がり、窓の木戸を押し上げて外を覗いた。オアシスの雨季が来たのだろう。雨粒に叩かれた乾いた砂が煙り、オアシスの街を白い霧のように包み込んでいる。
「…………」
雨は、誰かの涙のようだった。――アンドレイは深く傷ついているだろう。愛したはずのバカな男に噛み付かれ、裏切りの痛みにのたうち回っているに違いない。苦しんでいるのは愚行を犯した己ではない、傷つけられた恋人なのだとゼノンは思った。
ゼノンは慌てて鞄を下げ、雨季にまとう頭巾付きの上着を羽織った。枯れ河が出来て、黒薔薇の教会とこのオアシスを分断してしまうかもしれない。その前に謝りに行こうと扉に手をかけた瞬間、勝手に扉が開いた。
「わっ」
「ひどい雨だ。初めて知りましたよ、砂漠も雨が降るんですね」
「あ、アンドレイ……」
飛び込んできた美しい男の姿を認め、ゼノンは息をのむ。まさに彼が求めていた人が、濡れ鼠となって戸口に手をかけていた。
びしょ濡れの銀の髪をかき上げたアンドレイがつまらなそうに言う。
「お邪魔してもいいですか」
「う、うん」
ゼノンは怯えたように身を引く。それから、いつ洗ったのか定かではない布を取り上げ、慌ててアンドレイに渡した。神経質に匂いを嗅いだ後、ずぶ濡れの長い髪を拭ってアンドレイが静かに言った。
「……貴方の家は、ナツメヤシの問屋の隣の白煉瓦の集合住宅。すぐわかりましたよ。表札の字が汚いから」
そういってアンドレイが、髪や体を拭き終えた布を丁寧に畳んだ。
「あの、僕、いまから教会に行こうと思っていたんだよ、ひどい事をしたから謝りに」
蚊の鳴くような声で告げたゼノンに、アンドレイが抑揚のない声で答えた。
「いえ、まあ……久しぶりに弟に会ったので、怒りが引っ込みました。私の方にもちょっと問題がありますからね」
「ないよ、アンドレイに問題なんかない。僕が悪いんだ。あの楽譜を捨てようとしたから」
首を振ったゼノンの言葉に、アンドレイが一瞬だけ肩を揺らす。
「まったく……」
しなやかな腕が伸び、ゼノンの服の襟を掴んで分厚い体を引き寄せた。意外な力にゼノンがよろけ、アンドレイの痩身にしがみ付く。
「ゼノさんはどうしようもない人だ」
「あ、アンドレイ……」
「あの歌は、私に捧げられた恋の歌なんかじゃありません。我が一族に捧げられた賛歌です。ずっと昔、迫害されていた私たちを救ってくれた方が、あの歌を私と弟に作ってくれました。亡くなった一族の皆を忘れぬようにと……だから、宝物なんですよ」
「!」
アンドレイの言葉に、ゼノンが目を見開いた。
「そんな、そんな大事なものなのに……。ごめんなさい、アンドレイ」
「たとえばあれが私への恋の歌だったら」
アンドレイが言葉を切り、ゆっくりとゼノンの肩に湿った頭をもたせ掛ける。薔薇の香りが、男一人暮らしの小汚い部屋を満たした。
「あの楽譜がどれほど貴重なものであったとしても、貴方と出会った日の夜に捨てていました」
形の良い唇をゼノンのわななく唇に重ね、アンドレイは静かに目を閉じた。
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