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第10話

「雨ですね」 「うん、今は雨季だから」 「ここで雨を見たのは初めてなんです。私とあなたが会ったのは、雨季のすぐ後だったんですね」  ゼノンの伸びた髪をそろえてやりながら、アンドレイが言う。真剣なまなざしで柔らかい髪を指の間に挟み、余分な毛を少しずつそいでゆく。 「そうだよ、夏が始まったばかりのころだから」 「一年ちょっと前か……あ、切った髪が入りますから目を閉じて」 「了解」  ゼノンが、微笑んで目をつぶった。彼の日に焼けた頬に手を添え、頭を左右に傾けて、アンドレイが切った髪の長さを確認する。 「うーん、こんなものかな。これでいいですか、ゼノさん」 「ありがとう」  ゼノンが嬉しそうに鏡を覗き込む。アンドレイは剃刀を革の入れ物に仕舞って立ち上がった。 「じゃ、私は体を洗って来ます。雨と砂でベタベタですから」  だが、たくましい手を伸ばしたゼノンに、アンドレイは引き留められてしまった。腕を取られた彼は、表情を変えずにかすかに眉をあげた。 「……何ですか」  ゼノンが腕を放さずに立ち上がり、アンドレイの唇に己のそれをぐいと押し付けた。アンドレイが顔を離し「ふざけないで下さい、今から汚れを流して来ますから」と言うのにも構わず、ゼノンはもう一度、甘えるように唇を押し付けた。 「んっ……」  アンドレイが声を漏らし、力を抜いた。ここぞとばかりにゼノンがその痩せた体に覆いかぶさらんばかりに抱き付き、耳にも頬にも口づけの雨を降らせる。 「アンドレイ」 「な、何……」 「僕、君が好き」  そういって、アンドレイの体をよれよれの敷布がかけられた寝台に押し倒し、ゼノンは黒の長衣を引きはがした。 「やめてください、あの、寝台が汚れますから」 「あれ?」  アンドレイのものに優しく手を添え、ゼノンが彼の耳たぶを噛んで、じらすように囁きかける。 「ねえ、啼かずの誓いは?」  そのまま舌で耳の縁を舐め、首筋に唇を這わせてゼノンは笑った。 「ここ、もう大きくなってるのに、声出していいの? アンドレイ」 「あ、あの……ちょっと水で、汚れを洗わせて」  アンドレイが必死に肘をついて体を起こし、ゼノンから離れようとした。しかしゼノンのがっしりした両ひざに体を挟まれ、逃げられずにもがく羽目になる。  簡素なつくりの服をあっさりと脱ぎ捨て、己の昂ぶったものを握りしめたゼノンが、紅潮した表情で言った。 「ダメだよ」  そのままアンドレイに再び覆いかぶさり、ゼノンはその先端をそっと恋人に押し当てた。 「ダメだよ、我慢できないもん、ね、もう黙らなくていいの?」 「雨の……」  唇を手の甲で拭い、一糸まとわぬ姿でやわやわと脚の間を嬲られているアンドレイが、いつになく甘い声で答えた。 「雨の日は、声を出しても良いんで……んっ」 「えっ!」  ゼノンが間抜けな声をあげ、鎖骨のあたりに頬ずりしていた顔を上げた。 「雨の日は良いの?!」 「え、ええ……言いませんでしたっけ? あっ、言っていませんね」  アンドレイも我に返ったように紅の瞳を見張り、ゼノンの空色の瞳を見つめ返した。 「も、もっと……」  枕にしがみ付いて快楽の悲鳴を上げていたアンドレイが、背後から番い合っている恋人を振り返って涙目で言った。 「何?」  汗だくの胸でアンドレイの背中に抱き付き、ゼノンが耳を寄せる。もっとしてほしい事があるのか、これほどに良いのに、良すぎて辛いのに、強請り事を叶えるほどの時間持つだろうか、と当惑したゼノンに、アンドレイが息を乱しながら告げた。 「もっと、乱暴にしていいんですよ、貴方はそれじゃ物足りないでしょうに」 「……乱暴?」  ゼノンが不思議そうに首をかしげる。それから、背骨に沿って唇を滑らせた。 「あ……ぁっ……ゼノさ……」 「乱暴なのが好きなの?」 「そ、そうじゃ、ありませんけど」  涙目で息を乱し、アンドレイが囁くように応じる。 「じゃあ、やさしくするよ、ずっとやさしくする」  ゼノンが逸る躰を抑え込むように唇をかみしめ、それからアンドレイの髪の束を持ち上げ、あらわにした首筋に顔を押し付けた。 「ん……っ」 「ああ、いい匂いがする、アンドレイ、アンドレイ、そんな声出さないで……ッ」  背を反らせ、快楽から必死に逃れようと敷布を握りしめるアンドレイの姿に、ゼノンの抑えが利かなくなった。ふいごのように激しく胸を上下させ、彼はとうとう恋人の中で果てた。アンドレイもまた、悲鳴を上げて枕に顔をうずめ、同じように己を包み込むゼノンの掌の中で絶頂に達した。      滝のような雨が降りしきる中、教王イノツェンツィはそれをものともせず、黒薔薇の教会の庭に立ち尽くしていた。  打ち捨ててきた高価な白百合の衣は、今頃砂泥にまみれて使い物にならなくなっているだろう。だが、彼は気にした様子も見せず、びしょ濡れの美しい顔を上げて、ひたすら薔薇を摘み取っては、それを唇に押し込んでいた。 「ああ、美味しい」  花弁の汁で汚れた唇を舐め、イノツェンツィはまた手を伸ばし、黒薔薇を摘み取る。花に酔いしれるかのような、どこか茫洋とした仕草だった。 「昔は赤に白に桃色に黄色、いろんな花が咲いていたのに」  黒薔薇の花びらを一枚かじり、イノツェンツィが美しい紅色の目を翳らせる。 「もう、こんな寂しい色の薔薇しか咲かなくて……おや、そんなことは無いんですね」  ふと目をやれば、まだ柔らかな若木が、激しいほどに茂る黒薔薇たちの根元から顔を出している。みずみずしく透き通る茎の先には、白色の薔薇の蕾が一輪、愛らしい頭を垂れていた。 「なんという、いい香りなのでしょう」  裾が汚れるのも構わず、ずぶ濡れのイノツェンツィは小さな薔薇の前に屈みこみ、白い指先でその蕾をつついた。 「黒薔薇の、神の息吹のような清い香りとはまた違いますね。生まれたばかりの乳飲み子のように無垢な香りだ」  それを食べようかどうしようか、というように首を傾げた後、結局蕾は詰まずに、イノツェンツィは立ち上がった。 「さて、私もあのお馬鹿さんたちのところに戻らなければ。久しぶりに、いい『花』を食べられてよかった」

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