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第11話
「いつ洗ったんですか、これ」
「先週……?」
ゼノンが空色の瞳をかすかに翳らせ、何かを考えるような表情になった。
「先週はずっと、教会にいたでしょう。貴方が洗濯嫌いなのは知っていますけれど、溜めすぎですよ!」
困ったように頭を掻くゼノンの前で大仰にため息をつき、アンドレイは水場に散らかった服やら布やらをかき集めた。
「洗っておきます。さっさと仕事に行ってください」
その言葉に、ゼノンは目を輝かせた。
「今日もいてくれるの?」
「私、教会までの路が枯れ河になってしまって戻れないので、居候させていただきます」
「そうなんだ……!」
ゼノンが目を細め、アンドレイの背中に抱き付いて頭に頬をこすりつける。甘える大男に、アンドレイは冷たい声で言った。
「……汚すぎるんですよこの部屋。くしゃみが止まりません。
「ははっ、君、くしゃみなんてしてたっけ?」
「ええ」
頷き、アンドレイはまとわりつくゼノンを押し返した。
「さ、仕事に行ってらっしゃい。私、自分が我慢できる範囲までこの部屋を片付けておきますね。勝手に物は捨てませんからご心配なく」
「ふふ…………」
「何ですか、ニヤニヤして」
玄関で閊えたまま、背中を押されるがまま笑顔を浮かべていたゼノンが、幸せそうな声で言った。
「いや、可愛いなと思って。アンドレイは男から見ても格好いいけどさ、僕から見ると可愛い時もあるね」
ゼノンがくるりと振り返り、アンドレイを抱きすくめて思い切り口づけをする。それから、そのしなやかな身を抱きしめて耳元でささやいた。
「ねえ、雨っていいね。アンドレイがこの家に居たって、友達の家で雨宿りしてるだけだって皆思うよね。ああ、永遠に雨が降り続いてほしい」
「そんなものですか?」
「そうだよ」
アンドレイの耳朶にそっと歯を立て、ゼノンが囁きかける。薄暗い部屋の中に衣擦れの音が響き、漏れる吐息がそれに重なった。
「好きだよ、大好きだ。アンドレイ。僕はアンドレイをずっと独占していたいよ……」
アンドレイはその言葉に何も答えなかった。澄んだ紅の瞳には、何の感情も映ってはいなかった。
「教王様っ」
ずぶぬれで砂礫の教会の前で佇んでいたドーラが、同じく濡れ鼠になり、聖衣も失った美しい長身の姿を認めて、転がるように駆け寄って、濡れた石畳に膝をつく。
「おや、なぜあなたまでそんなに濡れているのです」
「ご、ご無事かどうか、不安で……あの恐ろしい『人ではない気配』が尋常ではなかったものですから、心配申し上げて……」
「大丈夫です」
そっと手を上げてずぶ濡れの顔を拭い、白金の長い髪を片手で絞って、教王は穏やかな声で言った。
「そういえば、貴方は人外の気配を読めるんですよね」
「は、はい……昔から、そのような家系に育ちまして……」
配下の言葉に、教王は緑の瞳を輝かせて頷いた。
「そう……特異な能力は神の恵みです。これからも神の願う世の平穏のために、その力を使ってくださいね」
教王の姿を認めたのか、多くの人々が教会から走り出てきた。傘を教王にさしかけ、ふかふかした高価そうな布を差し出し、人垣がその麗しき姿をドーラの視線から隔てる。「魔人の件はもう大丈夫です。この雨が止んだら、オアシスの国を引き払いましょう」そう皆に告げる教王の声が、ドーラの耳に届いた。
しのつく大雨の中でなお漂う、教王の身を包む神の護りのような薔薇の香り。その清々しさにドーラは思わず目を伏せ、小さな手を祈りの形に組み合わせた。黒薔薇の教会に封じられていた魔人の気配とは真逆の、圧倒的な聖性を教王イノツェンツィはその身に帯びている。まるで、体の芯から光を放っているかのような存在感だった。
「……なんというお方だろう。教王様はたしか、伝説の聖者ヴィクトルの血を引いて居られるときいたが」
ドーラは、教王の眩さに圧倒されたかのようにひとりごちた。数百年の時を生きているとも、代々血縁者がそのくらいを継いでいるともいわれる、幻の存在に近い教王。それから、黒薔薇の結界のうちに『砂礫の魔人』を封じ込めたという聖者ヴィクトル。
この偉大にして不可思議な教王イノツェンツィが、かの聖者の子孫であるならば、どれほどの力を持っていたとしても不思議はない。
「教王様があの様に仰るなら、もう砂礫の魔人は現れないのだろうな」
ずぶ濡れになってしまった己の衣の裾を絞り、ドーラは教王を囲む人々の後を慌てて追いかけた。
「ゼノン」
一人、雨具を着込んで防砂壁の修繕をしていたゼノンは、背後から声を掛けられて振り返った。父親の姿を認めた彼は、表情を消したまま「何? 父さん」とかすかな声で答えた。
「雨よけ、その重ね方じゃ水が入るぞ」
父親が日に焼けた太い腕を伸ばし、息子の行った補修部分のわずかなずれを直す。だがそれだけで、防水布の内側に流れ込む水が明らかに減ったのをゼノンは見て取った。
「それなりに役に立ってるみたいだな、お前も」
「……それなりにね」
目を合わせようとしない息子に、父は感情のない声で告げた。
「お前、一度帰ってこい」
「どうして」
「じいさんの猫がもう寿命だから、最後にお前を呼んでやれって母さんが言ってた」
「え、猫が……」
雨具の被り物の奥で、ゼノンの空色の瞳が曇る。祖父の可愛がっていた猫は、もう二十歳になる。奇跡的な長寿だったが、その事実はゼノンの心に少なからぬ動揺を与えた。
周囲になじめぬと感じた時、人の望むようにふるまえぬ己を責め続けた時、懐に抱いて寝たあの薄茶の猫が、もうこの世からいなくなるのだ。だが、その事実はゼノンには呑み込み難かった。
「それから、お前に大事な話がある」
そこではじめて、父がちょっとだけ笑った。猫の話で心を痛め、ぼんやりとしていたゼノンの精神は、父の言葉でさらに打擲ちょうちゃくされた。
「お前に見合いの話が来た。お前の働きぶりを相手方が認めてくださってな、ぜひお嬢様を貰ってくれという。母さんも俺も賛成しているから、後は相手のお嬢様がお前を気に入ってくれればいいだけだ。顔合わせの席では精一杯小奇麗にしてニコニコしてろ、お前、そこそこ男前なんだから。分かったな」
ゼノンの躰から、さっと血の気が引いた。
「え、見合い……?」
ゼノンの当惑の本当の意味を、当然父は理解しなかった。青ざめたゼノンを見て鼻で笑い、機嫌のよい声で言った。
「そうだよ。全く、お前はいつまでも奥手だな、でも二十四だし、嫁取りには遅すぎるくらいだぞ。……とにかく三日後に一度顔を出してくれ。仕事上がりの夕方でいい。頼むぞ」
父の表情は明るかった。この縁談がまとまるならば、感情的に息子に申し渡した勘当をなし崩しにしたい。そんな気持ちが透けて見えるような笑顔だった。
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