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第12話

 ――私は兄さんの顔を見られたので、もう満たされました。会いたい人がいるなら会ってきて下さいね。私はいつでも会いに来ますし、逃げませんから……。  あの時、イノツェンツィは、アンドレイの表情に何を見て取ったのだろう。昔から、彼はそういう弟だった。父親に似て優しく、声にならぬ声を聴く子だった。そして彼は、弟の言うがままにゼノンの家を訪ねてしまったのだ。怒りを忘れて恋に引きずられ、恋しい人の顔を見んがために、大雨の中を。 「完全に私、頭がいかれていますね」  ゼノンが楽譜を隠した時に、彼との関係を切り離すことはできたはずだった。長く共に在れるはずもない二人なのだから、潮時は自分で見つけねばならない。だが、頭と体はまるで協調しなかった。彼の心はゼノンに愛を告げ、その愛を乞い、彼という名の甘い沼に溺れた。差し出された愛情を飲み干し、魂まで快楽に染まり、より抜け出せなくなって今に至るのだ。  男に抱かれることはアンドレイにとっては常に悪夢だったのに……。なのに、あの日教会に尋ねてきた『世間に交われない若者』の目を見た瞬間から、アンドレイの中で何かが狂いはじめた。  アンドレイにとっては、美しい母の身代わりにと彼の体をいじりまわした人間の雄共とゼノンは、まるで違う生き物に感じられるのだ。体温も吐息も、まるで別のものに。  だが、花を貪り、排泄もせず、人とまるで違う生き物であるアンドレイの事を、ゼノンは何も聞こうとしない。何故、何も聞かないのか。何故、何も彼は疑おうとしないのか……。 「…………」  アンドレイは寝返りを打ち、味気ない砂壁をじっと見つめた。その時だった。 「ゼノン、居る?!」  女の声だった。アンドレイは弾かれたように顔を上げ、警戒した猫のようにかすかに鼻をひくつかせた。 「ゼノン! 台所から煙が出てるわよ、居るんでしょう」  ゼノンのために煮炊きしていた汁物の事を言っているらしい。内心舌打ちして立ち上がり、アンドレイは聖職者の長衣の襟を直した。 「はい」 「あっ」  そこに立っていた女は、アンドレイの姿を見て目を丸くした。 「教会の……教父様? いやだ、あの子引越ししたのかしら?」  大きな包みを以ってキョロキョロしているのは、空色の目の可愛らしい女だった。アンドレイはよそ行きの表情を作り、如何にも聖職者らしく胸に手を当てて、やさしい声で尋ねた。 「こんにちは、お嬢さん。私は砂漠の教会の教父、アンドレイと申すものです。雨で増水した枯れ河のせいであそこに戻れなくなり、ここに一時の宿を借りております。今、教王様がおいでなので、教会本部に空き部屋がないんですよね」 「あ、そ、そうなんですか、ご、ごめんなさい」  女が頬を染め、ほつれた髪を耳に掛けた。 「わたし、ゼノンの姉です。あの、じゃあ、弟にこれを渡しておいてもらえますか?」  女が差し出した包みは、どうやら服のようだった。 「わかりました。ゼノンさんにお渡ししておきます」  アンドレイの優美な挙措に安心したのか、女が満面の笑顔になる。どこか、ゼノンに似た表情だった。 「あの、それと、母が、ちゃんとそれを着てお見合いに来るように言っていたと、弟に伝えてください」  明るい声がそう告げた。  内容をよく理解できないまま、アンドレイは操り人形のようにうなずく。 「わかりました。ゼノンさんのお姉さん」 「お見合いをすっぽかさないように釘を刺しておいてくださいね。お願いします」  しまった扉を見つめたまま、アンドレイは小さくつぶやいた。 「……お見合い……ですか?」  まるで、周知の事のように彼女はそう言っていた。ゼノンも把握している、ゼノンの見合い。……次の瞬間、アンドレイの全身に鳥肌が立つ。大きな布包が、まるで裏切りを内包した何かのように思え、アンドレイは思わずそれを取り落した。      ――誰か行くもんか、わがままお嬢様とのお見合いになんて。ゼノンはむしゃくしゃした気分で雨の街を横切り、花屋の軒先に頭を突っ込んだ。 「あれ、大工さんの所の。久しぶり」  幼いころからの顔見知りだった花屋の親父が、笑顔でゼノンに声をかけた。 「久しぶりです、あの、薔薇の花束ください」 「おお」  店主がおどけたように目を丸め、楽しげにいそいそと赤や黄色、白の薔薇を紙にまく。 「恋人にあげるのか」 「ええ」  ためらいなくゼノンは頷いた。嘘ではない。これは恋人の夕飯だ。あの黒薔薇には味は劣るのかもしれないが……ゼノンは安からぬ花束に金を払い、そのまま店を出ようとした。だが、話し足りないらしい店主が、彼を呼び止めた。 「そうか、恋人かぁ……君も大きくなったね。昔はこんなに小さくて、お姉ちゃんと一緒にこの辺で遊んでいただろう?」 「まあ……」  あいまいに笑ったゼノンに、店主が曇りのない明るい表情で言った。 「いい事だ。若い世代がどんどんん家族を作って、可愛い赤ん坊がどんどん生まれて。俺はそう言うのを見ているのが一番うれしいね」 「……そう、ですね」  ゼノンは、あいまいな笑顔を保ったままうなずいた。――自分にはそんな『正しく明るい未来』を紡ぐ日は生涯来ない。そう思ったが、店主の好きな世界を壊す権利は自分には無い、とゼノンは思いなおした。味わい慣れた疎外感をかみしめながら、嘘のように鮮やかな薔薇に口づけをし、ゼノンは再び雨の中を歩き出した。  屋台街を抜け、住み慣れた小さな部屋の扉を開ける。この部屋は裕福だった実家とは比べるべくもない質素さだが、のびのびと羽を伸ばせる彼の城だった。 「ああ、お帰りなさい」 「ただいま! はい、これ」  扉を後ろ手に閉め、光り輝く銀髪の恋人の胸に花束を押し付ける。なんとなくもやもやとした気持ちも、美しい彼を見れば晴れる……筈だったのだが。 「あれ、アンドレイ、どうしたの」  手を伸ばし、表情を曇らせたままの恋人に、ゼノンは手を伸ばした。 「いえ……、貴方の食べ物は作ってありますので、どうぞ。私はこの花を頂きますので」  アンドレイがゼノンの手を振り払い、わずかに目を逸らして言った。 「食べ物? 作れるの?」 「ええ……昔、父の食事を弟と交代で作っていたので、それなりには……」  アンドレイがそう言って、ゼノンに背を向けて部屋の奥へと去ってゆく。ゼノンはふうん、とつぶやき、雨を吸った外套を壁に掛けた。 「アンドレイが昔の話をするなんて珍しい……ま、いいや」  独り言ちたが、ゼノンは首を振ってその言葉を飲み込んだ。不思議な彼の真実など、何も知らなくていい。知ろうとも思わない。触れて壊れる夢ならば、ずっと触れずにそれに寄り添っていたい。それがゼノンの偽らざる気持であったからだ。

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