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第13話

「アンドレイ、花食べないの?」 「…………」  花瓶に生けた花から目を逸らし、アンドレイが陰った紅の瞳を伏せた。 「ゼノさん……」 「ん?」 「貴方、何か私に秘密にしてませんか」 「ひみつ?」  ゼノンは、その言葉に首を傾げた。空色の目には曇りひとつ浮かんでいない。見るからに邪気のない、嘘もない表情。それがアンドレイを深く傷つける。ゼノンの無邪気な挙措ひとつひとつが、取り返しがつかないほどにアンドレイの心を抉る。 「無いよ、そんなの」  ゼノンが明るい声でいい、花びらをちぎってアンドレイの口元に差し出す。眼鏡を手で押さえ、アンドレイは嫌そうに顔をそむけた。 「いりません。今から本を読むので」 「何で。昨日から何も食べてないのに?」 「何年か食べなくても大丈夫なので」 「そう……」  ゼノンが頷き、花びらを持つ手をひっこめた。それから自分でかじってみて「うーん」と首をひねる。琥珀色に焼けた健康的な頬を光らせ、彼は「じゃ、後で食べさせてあげるね」とアンドレイに微笑みかけた。 「いりません、余計なことはしないでください」  アンドレイは己の心に垂れ下がる雲の厚みから目を逸らそうと、努めて冷たい声で言った。ゼノンが不思議そうに身を乗り出し、アンドレイの白く透き通る額に口づける。それからほのぼのとした笑顔をたたえて、首を傾げた。 「どうしたの? 機嫌悪い?」 「……っ」  なぜ、ゼノンは見合いの話をしないのか。ずっと年下の、純朴で誠実であったはずの男が吐いている嘘ひとつが、体の皮膚をはがされそうな痛みをアンドレイに与えた。  もちろん、アンドレイにも黙っている事はある。だが、恋人同士としての間柄に嘘はない。なのに、一見純に見えるこの男はそうではないのだ。女との新しい生活に指を掛けながら、アンドレイの足首もそのたくましい指で掴んでいる。とらばさみのように足首に食い込み、鮮やかな赤い血を流させる残酷な指が、アンドレイの精神を嬲って離さない。 「機嫌が悪く見えるなら、そうなんじゃないですか」 「何で?」  立ち上がって抱き付こうとしているゼノンが、アンドレイの目には『しらばくれた』としか映らぬ仕草で顔を曇らせた。 「何で、ですか?」  アンドレイは、言い返して立ち上がった。先ほど市で入手した古い本を閉じ、古い意匠の眼鏡を乱暴に机の上に置く。それから、怒りの燃えたつ紅の目で、不実な男を睨み付けた。 「何故なのか教えてほしいですか?」 「え、もちろん……」  素直に答えたゼノンの肩を、アンドレイはその痩身からは想像も出来ぬほどの力で押した。ゼノンが、体勢を崩して寝台に尻もちをつく。まだピンと来ない、と言わんばかりの態度に、アンドレイの心の縁にどす黒い火が灯った。 「じゃあ、素直になるまで泣かせてあげます。そのあとなら、教えてあげてもいいですよ」  嗜虐的な気持ちで、アンドレイはゼノンの日に焼けた耳にささやいた。嫉妬の炎は天を照らす薪のように燃え上がり、彼の内面に消えぬ焦げ目をつけ始めていた。 「なか……せる?」 「手を出して」  ゼノンが、素直に手を出した。その腕を掴んで背中に回し、アンドレイは首に掛けた聖職者の鎖を外す。 「貴方が本当のことを言わないなら、私は逆に、『本当の私』を見せようかなと思いつきました」 「どういう意味?」  ゼノンが、不安げに首を傾げた。まるで事態についてゆけない、何が起きているのかわからないと言いたげな無垢な表情に、アンドレイの中で何かの箍が外れる音がした。 「どういう意味も何も……男を泣かせる技を見せて差し上げるということですよ」 「いつも見てるよ?」  鎖で後ろ手に縛られ、不思議そうな顔をしたゼノンが、のんびりとした声で言った。 「いつものとは違います」  アンドレイの腹の底から、笑いがこみ上げた。幸せな笑いでも、ごまかしの笑いでもない。純粋な黒い色をした、嗜虐の笑いだった。     「や、止めて」  己の口の端から垂れそうになる涎すらぬぐえぬまま、ゼノンは悲鳴のような声で懇願した。寝台に腰かけ、開かされた脚の間にはアンドレイが半身を割り込ませている。服の下から引きずり出されたそれを、彼は何も言わずにただ、舌先で舐めつづけていた。 「……っ、やだ、やだよ、出ちゃうから……アンドレイの顔、汚れちゃうよ……」  閉じようとした膝は、しなやかな腕からは想像も出来ぬ力で再び開かれる。ゼノンは足の指を曲げられるだけ曲げ、必死に体から無理やり引きずり出される性感に耐えた。 「汚れちゃうから、やめよう、ね? こんな風にされるなんて、僕……っく……やっ……」 「……顔にぶっかけていいですよ、私の事は今日から男娼として扱ってください、どうぞ遠慮なく」  アンドレイの声は氷のようだった。だがほてり切ったゼノンの熱を冷ますには至らない。何の愛情も感じさせない、舌先だけの愛撫。そんなもので快楽を感じたくないのに、ゼノンの物は張りつめきって、爆ぜる寸前だった。 「イヤだあっ……ひっ、もう、止め……」 「どうですか、いつもと違うでしょう? 面倒な男を早くイかせたいときは、いつもこうしていたんです。顔が汚れるのは大嫌いですけど、掘られるよりマシでしたからね……何百年も昔から、男なんて皆変わらない」 「な、何の、はなし……、やだ、ヤダよ……ッ、……っ」 「私の男娼時代の話ですけどね、聞きますか?」  全てを吐きだそうと波打つ腹に必死に力を込め、ゼノンは力を振り絞って叫んだ。 「止めて! そんな話も聞きたくないし、こんな事もされたくない!」 「……知りません」  アンドレイの赤い舌が、つっとふくらみの裏をなぞった。 「嘘つきの強請り事なんか聞く耳持ちませんね」 「!」  ゼノンは燃え立つ官能に激しく身をよじった。わななき始めた足に力を入れ、もう一度叫ぶ。 「俺、何も嘘なんかついてないよ! アンドレイの事が好きで、それしかない男なんだよ? 知ってるでしょう! なのに、酷いよ!」  そう言い切った精悍な顔は、涙でびっしょり濡れていた。

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