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第4話
◇
「おはようございます!」
慣れた足取りでどんどん先を歩いて行く土方を追う様に、慣れない砂利道を転ばないように慎重に進んでいた。
「え?」
「誰あの人」
「オッスって……なんか匂う……。嘘だろ、オメガかよ」
「はよう……ござ……います……」
言いながら好奇の視線を向けられた。中には匂うとハッキリ言う男衆もいて、怜音は心臓がぎゅっと痛くなった。そんな怜音を気遣う様に、土方が大きく手を伸ばした。
「怜音」
みんなに見えるように堂々と。伸ばされた手は真っ直ぐに怜音に向かい、引け目を感じるな、堂々としろと目が物語っていた。
怜音の背中に一筋汗が伝わる。喉が渇きを潤す様に何度も唾を飲み込んだ。
土方が嘲笑する男衆を威圧するように辺りに一瞥をくれると、ほらっとばかりに再びグイっと伸ばされた掌が一際自分の方に大きく開かれた。反りかえる指先に力が入っているのが見て取れる。
よたつきながら走り寄り、それなのに太ももの近くで指が躊躇した。
手を上げれば掴める距離感で、今さらのようにぐずぐずする怜音の手を呆れるように土方が握る。
無表情の様に見えて土方も緊張感しているのだと、繋いだ怜音の指先に振動が伝わったのを感じて思った。
その一部始終を見ていた男たちは、納得するように口を一文字に結んだ。
その光景を無視するように、怜音の手を引き土方が砂利道をざっざっとするように歩く。
行きかう男たちが土方を見てみな作業をやめ、直立の姿勢で頭を直角に曲げた。
その光景が怜音の心をわずかだが開かせた。
周りの男たちに小さく首を垂れる。その動作と心境の変化を土方は黙ってみてうっすらと笑みを浮かべると、握る手に力を込めそのまま視線をもとに戻した。
「総司はどこだ」
土方がその中の一人に声をかけると、おそらくは一番奥の道場ではないかと思います。今のお時間はたいていいつもそこにおられますから、と教えてくれた。
真っ白い建物がいくつも立ち並び、中からは竹刀の音が響きあう。
「やー」
「はー」
と中から声がする。
そのどれもを通り過ぎ、だんだん声のしない静かな空間が自分たちを迎え入れた。
さっき教えられた一番奥の建物の前に来ると、後方の戸が開いていた。
静かだ――。
怜音は戸の方へ自然と足が向いた。
戸のところで土方が足を止める。繋いでいた手のせいで土方の背中にどんとおでこがぶつかった。
おでこをさするように空いている手で、さすりながら声を掛ける。
「土方様?」
土方の人差し指が、怜音の口の前に真っ直ぐに立てられた。
静かに、と言われ口をつぐみ中に目を向ける。
綺麗な男の人が、一心不乱に剣を振っていた。
ほとばしる汗がキラキラ光って、こんなにきれいなものを初めて見たと怜音は息をのんだ。
「綺麗……」
自然に出たであろう独り言に、「キレイ?」土方が反応してクククっとくぐもった声が漏れ、それを合図に剣を振る手がぴたりとやんだ。
「ずいぶん遅いお出ましで、忘れているのかと思いましたよ」
「忘れているわけが無かろう」
土方に対し、嫌みたらしく言う言葉に似つかわしくない綺麗な顔は、怜音の見知ったものだった。
――思い出した。
振り返ったその男は、あの時気まぐれに助けた男だった。
「お久しぶりです」
「………………」
「どうかしましたか?」
「いえ、…………遅くなって……申し訳ありません」
見えてしまった。着物の首元にある噛み後から、目が反らせなかった。
襲われたあの時に噛まれたのかと、同じオメガとして、その痛みに心が共鳴し、怜音は無意識に自分の項を押えていた。
「ああ、これは――」
視線がゆっくりとした所作のまま絡み合う。
沖田が小さく会釈した。
「怜音さん、こっちに来て下さい」
沖田に呼ばれた怜音は、心穏やかでないまま道場の真ん中で竹刀を持ちこちらを振り返っている男に向かって、歩き出した。緊張の糸がピンと張る。
項の噛み後を見てしまえば、たどる末路が手の取るようにわかる。
自分がオメガであるという、決定的な証拠だ。
「今……行きます」
反射的に答えているだろう怜音の表情は固まったまま動かず、そんな怜音を土方はどうしていいかわからず黙って見ていた。
「ごめんなさい」
沖田の目の前まで何とかたどり着き、怜音は地面を這う様に視線を彷徨わせた。
そんな怜音を見ると、沖田は吐き出す様にため息をつく。
「土方さん!」
沖田が少々苛立ちをあらわにするように怜音の手を掴む。そのまま自分の胸元に近づけると、大して変わらない身長で動揺している怜音を抱きしめた。
「あなたは何をしているんですか」
荒げる声にびくっとなるも、声の矛先はどうやら自分ではないようで、少しばかりほっとした。
「突然大声を出すな。怜音がびっくりするだろう」
「どんくさい朴念仁にとやかく言われる筋合いは無いですよ。こんなに怯えさせて」
「怯えさせたのは総司だろうが」
「違います。土方さんの伝え方が悪いから、こんなに不安そうなんじゃないですか」
「馬鹿言うな。きちんと愛していると言ったぞ」
「どうせ、言ったつもりになっているだけですよ」
「あっあの……僕、きちんと言ってもらっています。僕が自分に自信がないだけで、土方様は悪くないです」
何度もヒクヒク喉を詰まらせながら、伝えるべき言葉をきちんと選んだ。
「怜音さん、あの手の男は庇っちゃだめですよ」
「総司、失礼だぞ。怜音もああ言っているじゃないか」
「君は僕の項を見て心を痛めている。違うかい?」
沖田の勘の良さに胸が詰まる。
何が正解なのだろう。何が追い出されないのだろう。
詰まる喉を掻きむしりたい思いで、自身の喉に力を入れる。
「何が正解か」
静かな道場に沖田の凛とした声が、張られた。
「え?」
慌てて顔を上げた。
「何が正解かと思っているんだろう。どう言ったらここに居られるんだろう。どうやったらこの理心流の仲間に嫌われずに居られるんだろう。そんなことを必死に考えている。違うかい?」
言うなり口を弓型に丸めた。
笑うと少し幼く見えた。
「どんなことをしてもここの仲間は君を嫌わない」
嫌われないことなどあるのだろうか。沖田のセリフを口の中で繰り返した。
「君は命の恩人だ」
――誰の?
「不思議そうな顔をして、かわいい人だ。そんな困った顔をしないでおくれよ。恩人、僕のだよ」
沖田はそう口にした。
「あの、さっきのお久しぶりですって言うのは……」
「ん?」
「数日前にここに連れてこられたときに、一度お会いしました」
「そうですね」
「あの時はきちんと顔はわからなくて、えらくきれいな人だなと思っていて、それにも気が付きませんでした」
それといった怜音は視線を項に向けた。
「ああこれ?」
項を手で隠した。
「お久しぶりです。って言うのはあの時、格子の中の君と目が合ったからですよ」
「やっぱりあの時の」
気まぐれに助けた発情したオメガ。
「で、君はなんでそんなに不安そうなの?」
オメガと思えないほど沖田は凛としていた。
「怜音は、俺とお前の関係を疑っていたんだ」
見たこともないほどの嫌そうな顔がそこにあった。
「そんな顔をされるのは心外です。そもそもその顔は僕がするべきでしょう。僕土方さんみたいな朴念仁、絶対に嫌ですよ。発情したってセックスなんかするもんか」
「発情したら相手が誰とか関係なくなるもんだ。それがオメガだろ」
むっとした土方がそう言うと、無神経! そう言うところだよと嫌味が簡単に返ってくる。
「それが嫌だから、番ってもらったんじゃないですか」
「どこの誰ともわからない奴と番いやがって」
土方が声を荒げると
「馬の骨と番ったりするものか。分かっていますよ」
と沖田が冷静に返した。
「誰だ」
「誰だっていいでしょう。ヒートの時は詮索しない。ルールです」
「ツガイさんがいるんですか?」
「ええ、いますよ。あんな朴念仁じゃなく、大人な優しいアルファがね。ツガイがいるとフェロモンが番以外に作用しなくなるんです。稽古がやりやすい」
「それは、聞いたことあります。僕には一生縁のない事ですけど」
「何で?」
「番ったらほかの人の子供ができなくなってしまう。僕に決定権はないんです。産むのが仕事ですから」
土方は道場の端で懸命に刀を振る。
飲み込まれる感情にふたをした。
怜音は土方が何を考えているのだろうかと、気になって仕方がなかった。
一緒に死のうと思ってくれたら、いいのに。
思ってもみなかった感情に、自分自身が困惑した。
――僕はいったい何を考えているんだ。
「何を考えているのか分かる顔ですね」
言われてはっとした。
怜音は慌てて顔を手で覆い、すべてを無かったかのようにしようとする。
「そんな事になるかは別にして、思うのは自由ですよ」
想像は外れてはいないという確信があるのだろう。
「自由……?」
「でしょう。個人の自由です。オメガはアルファの顔色を見て、生きていくものじゃない。少なくとも僕はそんなことを強要する人間を認めません」
「そんなに強いならツガイになんて、ならなくても良いのではないですか」
「ヒートの末路を見た怜音君のセリフとは思えません。あれは魔物です。自由、意志、全てが思うようにはならない。違いますか?」
「……それは……」
「だから、奇跡的に助かったあの日、僕は誰にも言わずにある男のもとに行きました」
「何をしに……」
「番になってもらうために」
「恋仲だったのですか」
「いいえ」
「恋仲になれたのですか?」
「いいえ」
「恋仲になりたくないのですか?」
「ええ」
嘘偽りのない綺麗な目が、真っ直ぐに自分に向けられた。
「なぜ」
怜音は納得いかないとばかりに、食い下がるように同じオメガの目をじっと見つめた。
「僕のした提案はこうです」
◇
『……総司』
『生きて帰ってこれました』
死んだのかと噂になっていたことはもう沖田の耳にも入っていた。そして陰間茶屋に売られたというのも周知の事実になっていたことも知っていた。
稀代の剣士がまさかのオメガ。
号外にも流れたほどだ。
それでも手を回してくれたのは、この腕が必要だからだろう。
それならやることは一つだった。
『やはりオメガだったのか』
『そのようです』
『これからどうするんだ』
『お願いがあります』
『なんだ』
『ツガイという制度を知っていますか?』
『噂程度には』
『番ってしまえば不特定多数にフェロモンはまき散らさないらしいです』
『それは俺でも知っている』
『では話が早いです』
『ん?』
『僕と番ってください』
『は? 何を言っている』
『番った後は、一度も抱いてくれなくていいです。剣士として僕は生きたいんだ』
『抱いてくれなくていいってなんだ』
『言葉通りですよ。番うにはヒート中の交わりが欠かせません。その時に項を噛むことが必要ですから。でも、番ってさえくれればもうフェロモンは他には出ません。ヒートの期間は蔵に閉じ込めてくれればいいです。自分でどうにかしますから』
『何を言っているのか分かっているのか』
『わかっていますよ。狂っていると言われても結構です。その代わり、死ぬまでお供いたします。将軍様の為に、あなたの為に、僕の力は必要でしょう』
『――総司』
『お願いです。こんな事、他に誰にも頼めません。どう考えてもただの巻き添えですから。それでも僕はまだ剣士でありたい。こんなことで死にたくない。お願いです、……さん。好きな相手が出来たら、その相手と番ってくれていいです』
何一つ揺るがない男の決意がそこにはあった。
『噂程度だがな、解除されてしんどいのはオメガの方だと聞くぞ』
『本望ですよ』
『本望って、待て、今お前は正気じゃないんだ。いったんゆっくり考えろ。お前のことを愛してくれる奴がいるかもしれないだろう』
『かもって、失礼ですね。いますよ、募れば』
『それなら』
『わからない人ですね。僕のことを愛していてはダメなんです』
『なぜ……』
『囲いたくなるからですよ。子供を産ませ一緒に居たくなるからです』
『それがオメガの幸せだろう』
『オメガの幸せ? 僕の幸せをあなたが決めないでください』
『いやしかし……』
『いつまでもぐずぐずと女々しいですよ。そろそろやばい感じするんですけど』
首元から淡いピンクの色香とともに甘い匂いがふわりとし始めた。
『総司、この匂い……』
『ヒートです』
必死に自分の腕に爪を立てた。向かい合う男は口元を手で押さえ高ぶる中心に視線を落とした。
『こんな……馬の骨に……挿れられることを……望むのか』
男の目が細められる。口元から漏れる息は、沖田に煽られている証だった。
『馬の骨? 馬の骨なんかじゃ……ありません。僕の知る……限り誰より優しいアルファです』
沖田はくすくすと笑うと、その男の唇に噛みつき唾液を貪った。
唇を離すと耳元に寄せ、囁く。
『最初で最後の契約です』
『総司』
『僕、こんなことで夢、諦めたく……ないんです。あなたが誰の事を好きでも……この一瞬だけは……僕のために生きて……下さい』
『狡い……やつだ』
沖田の細い腰を抱きしめた。
『お互いに番のことは、一切……言わない。二度と抱かない。契約……完了です』
◇
「その人は今……」
「僕の話聞いていましたか?」
怜音はコクンと頷く。
「それは内緒といったでしょう。それに、それ以来していません」
「それがなぜ、僕が恩人につながるんですか」
「あなたが何か言ったから、僕はあそこに買われることが出来ました」
「あんなものは、ただの気まぐれです。金になると思ったから、それに女将さんにいい顔したかっただけだ。ただそれだけです」
「そうかもしれない。それでも僕はあれで命拾いしたんです。生きていたらチャンスがある」
沖田が頭を下げた。
「だからあなたはここでは嫌われない、そんなに自分を抑える必要もない。この唐変木にもっともっと甘えたらいいんです」
一心に素振りをし続ける土方を指さした。
土方の顔は見えなかったが、心なしか振る剣が揺れているような気がした。
「……それでいいんですか?」
オメガにはオメガの勘がある。これだから同族は……怜音はそう思った。
「何のことかわかりかねます」
冷ややかな目はそれ以上踏み込むなと言っているように思えた。
◇
後方にバタバタと足音が近づいてきた。
「失礼します! お食事の用意ができました。そちらの方も一緒に食べませんか」
「……僕ですか」
怜音は声の主にそう聞き返すと、その若い男は満面の笑みでこう言った。
「だって、土方さんのオメガさんは沖田さんの恩人さんでしょう。僕達とも仲良くなってください」
――――ああ、ここではこれが事実なのだと思った。
郷に入っては郷に従えだ。
「はい。よろしくお願いします」
期間限定の幸せな生活の終わりは、もうそこまで来ていた。
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