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第14話

「最近、大神官様、少し柔らかくなりましたよね」  思い掛けないことを言われた私は、「えっ」と間の抜けた声で問い直してしまった。私にそんな軽口のようなことを告げたのは、マーレヤだった。最近、私は、マーレヤとよく話をするようになったように思う。そのせいかもしれない。 「ええ。今までは、誰も寄せ付けない感じでしたし……私達の名前にも興味は無いご様子でしたから」  だとすると、それはシンの影響だろう。与えられるものすべて、当たり前のことなどないと教えてくれたのは、シンだ。シンの言葉の意味を正確に理解したわけではないだろうが、いくらかは理解出来た。私は与えられることを当然のように受け取っていたし、そのことを感謝もしなかった。マーレヤたちが私に思いやりを持って接してくれていることに気づかず、職務上しているだけだと勘違いしていた。  私は傲慢だった。そうマーレヤに告げることが出来れば、良かったのだろうが、それはまだ、私には出来なかった。 「シンが……、私に、いろいろな影響を与えたのだと思います。異世界から来た方には、そういう力があるように思えます」 「そうですね。大神官様。ああ、そうだ。シン様は、今日も庭園で空を見上げていらっしゃいましたよ。毎日、見上げていて飽きないのかとお伺いしたら、同じ空はないと言っていました」  雲の形、陽の光、風、気温。どれをとっても、一日たりとも寸分違わず同じということはないのだろう。けれど、私は、シンの視線の先にあるのが、青く澄んだ空ではなく、異世界だということを知っている。そのせいか、彼が、空を見上げていると聞くたびに、胸がきしんだような痛みを訴える。彼は、異世界へ帰りたいのだろうか。六百年前にここへ来た『クロノ』という男は、どうしたのだろうか。この地で生涯を終えたのだろうか。だとしたら、『クロノ』の子孫がまだこの地に生きていることはあるのだろうか。或いは―――……。 「大神官様、お顔色が悪いようですが……」  心配して、マーレヤが私の顔をのぞき込んでくる。指先から、血が引いていくような、嫌な感覚がした。血の気が引いている。指先が冷たい。 「あ、ああ……問題はありません」  ただ、想像したのだ。六百年前の『クロノ』という人物が、元も異世界へ帰還を果たしていたとしたら。シンが、異世界へ戻る道があるということだ。そう考えたら、気が遠くなりかけた。 「以前も、倒れましたから、少しは休んで下さい」  心配性なことだ、と私は思う。だが、倒れたのも事実なだけに、反論も出来ない。 「必要なだけは休んでいます」 「必要なだけお休みの方は、倒れることはないと思いますが」  最近、マーレヤは軽口を叩くようになった。以前の私ならば許さなかっただろうし、軽口をする雰囲気でもなかったはずだ。これが、マーレヤの言うように、丸くなったと言うことなのだろう。不思議なことにこういうやりとりが、嫌いではないことに、私は大いに戸惑う。  そういえば、シンが言っていた異世界の機械は、どうなったのだろう。私が魔力を流すことが出来れば、動き出すことは可能なのだろうか。私は、シンが居た世界を、垣間見てみたかった。彼は、空が狭いと言った。高い建物が天を目指してにょきにょきと生えているような、そんな口振りで。建物と建物の隙間から見えるわずかな、澄んでいない、淀んだ空。そんな空でも、空は、青いらしい。私の知らない、私が想像することも出来ない、世界。シンの心は、まだその異郷にある。恋人や友人、両親や親戚、仕えていた組織……様々なものと分断されて、彼はここへ呼ばれたのだ。  元の世界の光景をもう一度見ることが出来たら―――里心がついて、彼は、異世界へ戻りたくなるのではないだろうか。戻りたい、と言われたとき、私はどうすれば良いだろうか。六百年前の記録を調べて、戻ったのか、戻っていないのか、それを確認して―――少なくとも、彼に対して誠実な対応を取るというならば、私が出来ることはしなければならないだろう。そのことを、考えると、気が重くなってくる。 「大神官様、火急のご使者が!」  私の思考を分断するように、駆け込んでくるものがあった。あまり見かけない顔だった。私は怪訝な顔をしていたのだろう。マーレヤが「門番です」とだけ告げる。私の居館まで、門番が来ることはない。異常な事態が起きていると言うことは把握出来た。 「火急ですか。一体どういった、急ぎの使者が来たのです」 「それが……、先触れもなく、テシィラ国がおいでになりました」  テシィラ国は、先日国王からの書簡を受け取ったが、こちらへ使者を差し向けると言うことは一切書いていなかった。 「無礼な」  追い返せ、と命じようとした私の言葉を遮り、門番が叫ぶように言う。 「国王陛下、御自ら、おいででございます!」 「まさか」  それこそ、こちらにも、したいとは思わないが歓待の支度もある。先触れを出さないのは無礼なことだ。しかし、ここで、門前払いをするわけには行かない相手でもあった。 「無理に押せばば、神殿の門が開くとでも……?」 「あちらは、そうお思いなのでしょう」 「現在、副神殿長様はじめ神官の皆様が、対応なさっております」  そのせいで、門番が、私のところに来たというのは、納得がいった。テシィラ国の国王は、何度か謁見したことがある。私は、基本的には聖地であるここから出ることはないが、あちらが、やってくる。御年、五十。壮年の男で、美丈夫と言って差し支えのない、整った顔立ちと、立派な身体を持っている男だった。国王、という地位に就いているのならば当然のことかも知れないが、自信に満ちあふれ、他を圧倒するような生命力を常に発散させている感じだ。浅黒い肌に、黒く波打つ長い髪。金色の瞳を持っていた。あの目に、見られるのがなんとなく不愉快で、あの男と顔を合わせる歳には、いろいろと理由を付けて、羅《うすもの》で作った帳《とばり》を隔てていた。 「……マーレヤ。帳の用意……」  私は、帳を用意するように命じ掛けて、はた、と止まった。あの男は、一体、何を、目的でこんな所まで来たのか。直近の書簡を引っ張り出して確認する。おそらく、あの男は、シンの存在をどこかで嗅ぎつけたに違いなかった。 「マーレヤ。頼みがあります」 「は、はいっ?」 「シンを……絶対に、テシィラ国の国王に合わせないように。神殿の全神官に、シンの存在については、絶対に口外しないことをすぐさま伝えて下さい」  肌が、粟立つ。嫌な予感がした。もし、テシィラ国の国王が、シンの存在を知ったとき。なんとかして、シンをここから連れ出そうとするのではないか。シンと一緒にこの世界へ来たものたちを、奪い去ったように。 「シン様を……ですか?」 「ええ。あの男の目的は、シンでしょう。力尽くで、シンを連れ去ろうとするかも知れません。ですから、シンを、絶対にあの男が来ないところへ連れて行って下さい」  それはどこだろうか。立ち入ることが出来ない、特別な場所。考える。どこかにあるはず。例えば、一時的に獄に入って貰ったとしても、あの男は、そこへ闖入することが可能だ。であれば。 「……私の寝所へ」 「えっ!?」  マーレヤも門番も、驚いている。平素、私が居館で使う寝室には、強固な結界が張られていて、そこは厳重に守られている。マーレヤは平素から出入りしているから気づかないだろうが、出入りを許したものにだけは、何の障害もなく寝所の扉は開く。万が一、神殿が他国からの侵攻を受けた際、大神官は、自らの寝所に立てこもれば良い。そして、そこからは、秘密の出入り口があり、別の場所へ逃れることが出来る。ここまでの秘密を彼らに打ち明けることは出来ないが、この神殿で一番、安全な場所であるのは間違いない。 「あそこは、安全な場所です。シンをなんとか、そこへ連れて行って下さい。今の時間ならば、彼は、空を見上げているでしょうか」  もし。テシィラ国の国王が、シンにこう囁いたら、シンはどうするだろう。 『私は、元の世界への戻り方を知っている。あなたと一緒にここへ来た方たちも、本当は、元の国へ戻したのだ。あの大神官はあなたを騙している』  毎日空を見上げていたシンは、帰るだろうか。テシィラ国の国王についていくだろうか。彼の思うままに行動して欲しいと思う私と、大神官として、あの国に『異世界の民』を渡すことは出来ないという、私の立場が、揺れ動いてせめぎ合う。 「シン様は……多分。先ほどまでは……」 「であれば、速やかに、シンを私の寝所へ」  マーレヤは、頷くとそのまま駆け出す。門番が残され、不安げな顔をしていた。私は、自分の従者もなしに、あの国王に対峙しなければならない。ならば、少しでも、あの男に対抗出来るようにしなければならない。 「門番の方。お名前は?」 「えっ? へっ……っ? 私ですかっ?」 「勿論。あなたのお名前を伺いたい。あなたがこうしてここへ来てくれなければ、私はシン……異世界からの客人を守ることは出来なかったでしょう。心から感謝します。ですから、あなたの名前を知りたい」 「はっ、はいっ!」  門番は、背筋を伸ばして、敬礼してから私に告げる。 「サジャル国ニミシト県出身の戦士、ノレスパの息子レダルでございます!」  サジャル国は大陸の西側にある、とても暑い国だった。戦士の国、として有名で、各国へ傭兵を送り出していることでも有名だった。彼の名乗りを聞く限り、戦士の誇りは、まだ、脈々とサジャル国にあるのだろう。 「勇敢なる戦士、レダルに心より感謝を」  私の言葉を聞いたレダルの頬が、真っ赤に染まった。 「ここから、少々、芝居に付き合って頂きたい。大神官の正式な装束に着替えます。その後、テシィラ国の国王の所へ参りましょう。あなたには、私の護衛を頼みます」  平素着ている装束よりも、より華麗な装束は、金糸銀糸で刺繍されている上、正式な飾り物まで身につければ、頸飾やらの宝飾品も入るため、重くて仕方がないのだが、致し方ない。暗殺防止も兼ねた装飾になっている為、至近距離で刺されても命は助かる。  私は速やかに装束に着替えて、テシィラ国の国王の元へ向かった。緊張にこわばったレダルの姿を見ていると、私の緊張はいくらか治まった。あとは、マーレヤが、シンを無事、私の寝所に匿ってくれたか……だけだ。それを見届けてから国王のところへ向かいたかったが、さすがにそこまで悠長なことをしている時間はないだろう。  カツカツ、と私の靴の音が、長い大理石の回廊にこだまする。裾を長く引く装束は、酷く、ひどく重い。肩に垂直にのし掛かってくるような、重みだった。それは、この神殿を背負う重さに、少し似ている。

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