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第25話

「それじゃ、りん、また連絡するから」 「はい、先輩も…」  ホテルのルームサービスでモーニングを済ませた俺たちは、そこで別れた。エレベーターまで見送ってくれた海智は、やっぱり改札口まで、と言うが、昨日浴衣しか持っていなかった彼は、バスローブでしかいられない。家の者を呼ぶと言っていたので、ここで別れようと俺が提案したのだ。バスローブ姿で改札口まで連れ歩くのは、さすがに出来ない。手を優しく撫でられて、唇を吸われる。今日何度目のキスだろうか。  ポン、とエレベーターが到着の合図を出す。名残惜し気に、俺たちは手を離し、手を振って別れた。  急降下していくエレベーターの中、俺は一人、溜め息をつく。  とても幸せだった。  大好きな海智とまた、こんな風になれる日がくるなんて思いもしなかった。  俺が大切にしていた思い出を海智も、大切に覚えててくれた事実も嬉しかった。  宝物のように唇を合わせてもらえることも幸せだった。  それなのに、なんでこんなに、心が重いのだろう。   まるで、魚の小骨が喉にひっかかって、ずっとそれがあるような気分だった。途中までは、何も問題なく恋人の時間を過ごせていたように思えた。きっと、こんなに心残りがあるのは、最後まで出来なかったからだ。  俺は何度も達したけれど、海智は、昨晩、一度も達することはなかった。  むしろ、勃起すらしなかった。  手で扱いたり、苦手だけれど口で奉仕をしたり、なんだりと格闘したが、海智のそれは一切反応を見せなかった。中学生の時は、何もしなくたって立派に主張していたはずなのに…と考えて、頭を振る。  昨日は疲れていただけだ。  海智も、そうやって笑ってた。まさかこんなにうまくいくなんて思ってなくて、身体がびっくりしてるんだって。その悲しそうな笑顔に、俺は何も言えなかった。きっと、そうなんだって信じるしかなかった。違和感は払拭しきれない。心配なのか、不安なのか、焦りなのか。心の中でずっと重い何かが渦めいているが、それを気にしないように努めた。だって、俺たちは、恋人同士に戻れたのだから。それを喜ばずにして、どうしろというのだ。  昨晩から、何度目かわからない言葉で自分を叱咤する。  セックスをするだけが、恋人ではない。  海智のあの笑顔、瞳を信じるんだ。  数年前にもたくさんつぶやいたこの言葉を、また唱えることになるとは、昨日の俺は思いもしなかった。  寮につくと、軽くシャワーを浴びて、ベットにむぐった、瞼を閉じると、すぐに眠ってしまった。一人で眠るベットは冷たいが、誰も俺を邪魔しない。  次に目を覚ますと、夕方だった。そんなにも寝てしまったのかと、重い頭でぼんやり思う。のそりと身体を起こすと、机の上に充電の切れた携帯があることに気づいた。何となしにコードをつなぎ充電すると、数件連絡が入っていた。  ひとつは、来週の夏の学校閉鎖の時期に帰る約束をしている兄たちからの連絡。それを後にして、一番新しく連絡の入っていたものを開く。猫のゆるキャラが吹き出しで、「無事帰れた?」とメッセージが来ていた。海智だ。どき、とすぐに瞼が持ち上がり、身体が軽く感じる。  「今まで、寝ちゃいました。もったいない休日です」と送るとすぐに、「贅沢な日曜日だね」と返ってきた。思わず頬がゆるむ。  返信を打とうとすると、携帯が振動する。着信を告げるものだった。その相手に、目を見張る。冷たい汗が噴き出る。どうしよう、と悩んでいる間に、それは切れてしまい、もとの海智への返信画面へと変わる。 「理央…」  海智と一緒にいて浮かれていた俺は、理央のことを忘れていた。  一度、海智とのトーク画面を消す。眠っていた携帯にもう一つ、連絡がきていた。それは、理央からだった。  昨日の夜、夏祭りどうだったか、という内容と共に、むさくるしい男たちとの写真が送られていた。それぞれ屋台を楽しんでいる写真だったが、少しも心が晴れることはなかった。そして、今日の昼頃、かき氷の件の日程を訪ねる連絡がきていた。さっきの電話もそうかもしれない。  急に、自分が後ろめたいことをしているのだという悪徳な気分で、足元がふらついた。  俺をまっすぐ好きだと言ってくる理央。しかし、俺は、海智の手を取ってしまった。  でも、俺は、理央を…  そんな都合の良い話あってはならない。何かを得るには、何かを捨てる覚悟が必要だと何かで聞いたか見たかした覚えがある。きっと、今はそれなのだろう。 「理央…っ」  心臓が、誰かの手の中にあるのではないかと思う。ぎゅう、と心音が出ないほど握りつぶされている気がする。息苦しい。でも、俺は、そう決めたのだ。導かれるがままに、俺が、決めたのだ。  だから、こんなに心がちくちくと痛むのはおかしいのだ。気のせいだ。気のせいだ。携帯を抱きしめながら、俺はその場に蹲った。 『あ、りん先輩?』  夕飯終わりに、非常口を出たところにある階段で、俺は理央に電話をした。外気は熱いはずなのに、尻にある階段は冷たいように思えた。  電話口の理央は、明るい声で話を続ける。 『何度もすみません、かき氷の件、早くきめちゃいたくて…』  理央の後ろががやがやと聞こえる。きっと出先なのだ。それでも、俺の電話をツーコールでとってくれるのだ。 『いや~もう俺楽しみで楽しみで!那須にいいところがあって、うちの別荘もあるんで、一泊して遊んでいきません?』  アウトドアスポーツがたくさんあって、先輩とやりたいことがたくさんあるんです!と楽しそうに笑いながら話す理央は、簡単に目に浮かんだ。ちょっとはにかんだ屈託のない笑顔。俺だけまっすぐに見つめる瞳。  ぎり、と奥歯を噛み締める。 『りん先輩…?』  何も言わない俺の異変に気付いたのか、うかがうように名前を呼ばれた。 『…何か、ありましたか?』  眉尻をさげて、心底心配ですと顔に表す理央がすぐ目の前にいるような気がした。それほどまでに、理央は俺にとって近い存在なのだと思い知らされる。 「理央…」 『りん先輩?』  笑えるほど、情けなく小さなかすれた声だった。それでも、理央は俺の声を拾ってくれる。泣きそうな顔が俺を覗いてくるように思えた。 「それ、キャンセルで」 『え…?』  ぐう、と力いっぱい手のひらを握りしめる。 「出かけられなくなった…」 『それって…どういう…』  今度は理央の声が小さくなって、揺れていた。俺の声もかすれて、震える。 「とにかく、別のやつと行って…」 『先輩…?何言って、」  まだ理央の声が聞こえたが、電話を切る。これ以上話すと、妙に鋭い理央に、泣いていることが悟られそうだったからだ。一人蹲り、涙が引くのを待った。

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