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第36話

「今日の風紀活動はこれで終わりにする。各自、巡回しつつ帰宅してくれ」  完全下校を三十分すぎて、辺りはとっぷり暗くなった。インカムを通して、風紀のメンバーに連絡をいれる。 「長い一日だった。みんな、よくやってくれた。本当にありがとう」  目の前には誰もいないのに、頭を下げてしまう。それほど、風紀の仲間の頑張りを感じたからだ。今日は、全部で十件の事案が発生した。被害者は十名。確保できた加害者は三十八名。危険を察知して先に逃げられてしまった場合や人数が多すぎて風紀委員のフォローが足らずに逃した場合もあった。おそろしいのが、加害者の半分以上がベータであることだ。全件が未遂でなんとか確保できたことが不幸中の幸いだった。  各チームリーダーがお疲れ様でした、とお互いをねぎらう言葉をかけ合って通話を切っていく。インカムを外して、ふう、と溜め息をつくと、ようやく身体から力が抜けた。変な筋肉痛になりそうなほど、身体が強張っていた。ぎゅ、ぎゅ、と手を開いたり握ったりする。血が巡っていなかったのか、関節がぎしぎしと痛んだ。  二学期初日から、こんなに連絡が多いとは、予想しなかった。  脱力して、机に突っ伏す。いけない、とわかっているのに、うとうとと瞼が重くなってくる。心地よい。すう、と瞼を閉じる。 「りん先輩?!」  急に肩を揺らされて、驚いて思わず立ち上がってしまう。ごん、と鈍い音がして、男の呻き声が聞こえた。急いで目をこすり、瞬きを繰り返すと現実風景が見えてくる。 「大丈夫ですか?」  目の前には、いたた、と顎を押さえながら、俺を心配そうに声かける理央がいた。 「え?理央?」  これは、夢か…?  だって、理央は持ち場から帰ったはずじゃ… 「いや、あの、忘れ物、しちゃったんで…」  そういって、ポケットからワイヤレスイヤホンのケースらしきものを見せた。 「あ、木場さんは、ちゃんと曽部さんのチームと合流してから、俺、こっちに来たんで、大丈夫です」  聞いてもいないのに、理央は珍しく口数多く話をしてきた。目線は合わせないけれど、こうして口を開いてくれる理央に、心底、身体が緩んでいくのがわかる。すとん、と腰をもとあった椅子に戻す。  理央は何度か、口を開けては閉めてを繰り返した。それを、じっと見つめる。  心の中で、何度も名前を呼んだ。それでも彼は、俺を見ることをしない。  そんなことに気づかない理央は、カバンをごそごそとあさってから、掴んだ何かを俺の机に置いた。 「先輩、今日も一日、お疲れさまでした」 「理央…」  背中を向けてから、理央はそうつぶやいた。机には、俺のお気に入りの紙パックのりんごジュースがあった。じわじわ、と身体の奥底から、温かい何かが湧きだす。 「早く帰りますよ、準備してください」  ドアを開けて、廊下で理央は立って待っていた。急いで施錠を行い、理央の後に続く。別に言葉を発することなく、目の前にいる理央の背中を不思議に見つめた。  どういうことなんだろう。  理央、理央。教えて。  何度もその背中に心の中で問いかける。もちろん、理央には伝わらなくて、振り向きもしない。  ぐう、と喉の奥が詰まって苦しいのに、心はどこか温かくて心地よい。  ベータ寮の門灯が見える。すると理央は立ち止まる。なんだろうと、少し期待しながら待つが何もない。おそらく、先に行け、という意味なんだろうと解釈して、一歩前に出る。振り返って理央に向き合う。す、と久しぶりに視線が交わって、どきり、と心が躍る。 「理央…っ、ありがとう。また明日も頼む」  名前の後に、なんて言おうとしたんだ。  疲れているから自制が効かなくなりそうで、驚いた。  急いで、礼の言葉にすり替えた。理央は、まっすぐ俺を見ながら、眉尻を下げて悲しそうに微笑んで、踵を返した。  なんでそんな顔するんだよ。ちくん、と身体の奥が痛んだ。  理央の後ろ姿を、じ、と見つめていると、ポケットに入れている携帯が振動するのがわかった。取り出し、ディスプレイを確認すると、どく、と視界が揺れる。海智からのメッセージが着ていた。 『今すぐ、生徒会の俺の部屋に来て』  トーク画面にはそう書かれていた。  どうしよう、と悩んだが、ここ最近の疲労で、人肌の恋しさがあったのは事実であり、何より、理央への気持ちから海智へ後ろめたさがあったのは事実だった。だから、俺は、決定事項のように告げられた、そのメッセージを聞き入れるしかなかった。  顔を上げると、もうとっくに理央の姿は消えていた。重い足取りで、来た道を戻り、学園に一番近い、生徒会専用寮へと足を運んだ。  生徒会専用寮のエントランスは暗証番号の入力と専用のカードキーが必要である。エントランスまで来て、どうすればいいんだ、と思っていると、勝手にウインドガラスが開いた。戸惑うが、ずっと開いているそこに、入ってこいと言われているようで、足を踏み入れた。俺がエントランス内に入るとウインドガラスのドアは固く閉ざされる。  高級ホテルのような柔らかい真っ赤なカーペットを踏み、エレベーターへと乗り込む。確か、役職によって階が異なる。ワンフロアに二部屋。生徒会長はワンフロアまるまる貸し与えられていると聞いた。エレベーターボタンの前で指を迷わせていると、携帯が動き、メッセージが入っていた。 『二〇二号室』  なんとタイミングが良いのだ。どこかで、見ているのだろうかときょろきょろ見渡してしまう。カメラがついているが、まさかな、たまたまだろう、と溜め息をついた。言われた通りに部屋の前まで来る。息を飲んでから、チャイムを鳴らす。もう一度鳴らすが、返答はない。  こんこん、とノックして、「先輩?」と小さく声をかけるが、それにも返答はない。何か嫌な予感がする。汗を拭ってから、ドアノブに手を伸ばす。  かちゃり、とドアが開き、おそるおそる覗き込む。 「先輩…?」  中はカーペット続きで、大きな観葉植物とソファの背もたれが見える。人の気配はないように思えたが、身体を滑り込ませて、もう一度、控え目に呼びかける。 「先輩、俺です…いらっしゃいますか…?」  目の前の部屋の中に夢中で、後ろ手に、ガチャ、と鈍い音がしてドアが閉まったのを振り返って確認する。すると、そのドアノブには、ナンバーディスプレイが設置されていて、どういう仕組みの部屋なんだ、と首をかしげる。  部屋は、ここで間違いないはずだ。早く海智に会わなければと思いつつ、俺には中に足を進める他、選択肢がなかった。  壁沿いに置かれた大きな観葉植物の左手に中心で合わさった二枚の引き戸があった。右手には、大きなソファと、ダイニングテーブル、立派な大理石調のキッチンがあった。そのさらに右手には、ドアがついていた。 「先輩?どこ…」  大きな窓ガラスからは、青々とした緑がたわわに茂り、夏風に揺さぶられていた。その時、物音が後ろからする。は、と気づき、急いで振り返る。それは、引き戸の奥から聞こえるもののようだった。 「凛太郎、こっちだよ」  急に声がして、肩が跳ねる。  誰だ…?  海智の声ではない、もっと高くて、透き通るような声だった。  風紀委員ならば常に常備させられている結束バンドを確認する。不貞を働く乱暴者たちを拘束するために物だ。いざとなれば、空手で鍛えた技が俺を守ってくれる。つ、と冷たい汗が背中を伝う。引き戸に手をかけると、奥からいろいろな音が聞こえる。何かが軋む音、破裂音のようなもの、それから、荒い息。  それから、勢いよく引き戸を開けた。

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