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第38話
そのまま寮に帰る気にはならずに、無心でとぼとぼと歩く。
ばらばらと溢れる涙は、止まりそうにもない。
ずっと、引っかかっていたことがある。
海智から、本薙には気づかれるな、と二人の関係性を口留めされた時から心の中にあったこと。
今日の二人は、アルファとオメガの獣の姿だった。
しかし、今の俺は、疲労困憊で、海智への疑念が強かった。そのため、本薙が本命で、二人は本能でも結ばれた恋人同士なのだろうと思えた。ベータの俺にはわからない、運命の番、というやつだ。そう見えた。本妻が、浮気相手の妾に、ほら見なさいと鼻を鳴らすように見せつけられたのだ、と思った。
俺が本気で好きだった男は、とっくの昔に、運命のオメガと結ばれていたのだ。それをたまたま、昔遊んだベータがいて、タイミングか何かがあって、遊ばれたのだ。
なんと愚かなベータなのだろう。
また、海智がオメガに盗られてしまった。
「はは…俺って、ほんと、ばか…」
理央にも愛想をつかされて、海智にも遊ばれて。
結局、誰にも選んでもらえない。
バカでドジで、愚かで、孤独なベータなんだ。
ぐず、と汗だか涙だかでぐしょぐしょのシャツの袖口で、もう一度顔を拭う。鼻がつまって呼吸が苦しい。ず、とすすって、顔を上げる。街頭がいくつか、ゆがんだ視界に滲むように光る。それに導かれるようにして足を進めると、人影があって、ぎく、と身体が固まる。
ベンチに、男が誰か座っていた。指先で目元をこすり、誰だろう、とこらす。項垂れた男がゆっくりこちらに振り向いた。
重い瞼で目を丸くする。あの姿は、あの男は。
俺に気づいた男は、立ち上がってこちらをしばらく見つめた後、踵を返した。
「り、お…」
風上から流れてくる、あまい匂いが、つまっている鼻腔の隙間を縫って、脳に届く。手を伸ばしても、彼は背中を向けてまっすぐ歩いていってしまう。
「理央…っ」
優しい、温かい理央の笑顔が恋しかった。
ただ俺は立ち尽くして、その場で涙を拭い、嗚咽を漏らすことしかできなかった。
ごめん。
理央、俺がバカだったんだ。
でも、もう理央は、俺にけじめをつけている。だから、彼に甘えることは、身勝手でずるくて、非情なことだ。もう俺のわがままで、彼を振り回すことはできない。
俺は、一人で頑張らないといけないんだ。
それでも涙は止まらなくて、寂しさも埋まらなくて、ずたずたの心も全然回復しない。
「理央…っ、く、り、お…」
口は勝手に、理央の名前をつぶやく。きっとこの距離では、彼には届かない。何度も、彼の名前を呼ぶ。でも理央は、俺に振り向かない。あふれる涙が、腕をつたって、レンガ調の足元にぼたぼたとシミを作っていく。
「~~~っ、だあああーーっ!!!」
急に大きな雄叫びのような声が聞こえて、びくっ、と身体が跳ねる。ちら、と顔をあげると、遠くにある理央の後ろ姿が、手を握りしめて、俯いている。
「惚れた方が負けだ!!」
何かまた大声で独り言のように言っていたが、丁度鼻をすすってしまい、聞こえなかった。
次の瞬間、ぐるり、と振り返り、俺のもとへずんずんと長い脚で近づいてくる。あっという間に目の前にやってきた理央は、眉毛を吊り上げて、眦を染めている。近くにある顔を茫然と見上げていると、ぼろ、とまた片目から一粒、涙がこぼれた。それを見て、舌打ちをした理央は、長い腕で、ぎゅう、と俺を抱きしめた。
「り、お…どうし、て…」
温かい身体の中で硬直したまま囁くと、たくましい胸板に強く抱き込まれてしまう。
「俺は、…俺は、絶対に、りん先輩の…味方、だから」
耳元で熱い吐息と共に流れ込んでくる声は、俺よりも苦し気だった。
頭の片隅では、もう頼っちゃだめだ、これ以上理央を傷つけたくない。そう思っているのに、ど、ど、と少し早い力強い心音に俺は、頬を擦り寄せて、背中をきつく抱き寄せた。俺の動きに気づくと、理央は、もうこれ以上無理なのに、まるで一つになろうとしているかのように、さらに抱きしめる腕を強めた。
理央…、理央。
何度も名前をつぶやく。
りん先輩…。
理央も俺を呼んでくれる。
それだけのことなのに、色も温度もなくした心が、じわじわと色々なものを取り戻していく感覚がした。奥底まで冷え切ってたのに、ゆっくりと理央が息吹を戻してくれる。
俺には、理央が必要だ。
理央だけは、絶対に、手放したくない。
わがままな俺の本能が、そう叫び続けた。
俺の涙が引くまで、理央はずっと抱きしめていてくれた。もう大丈夫、と腕を解くと、理央のシャツに、ぬと、と俺の鼻水がついてしまって、顔を真っ赤にすると、理央は大笑いした。
「ご、ごめんってば!そんな笑うなよ!」
「はは、すみませ、っ、はい、ちーんして」
理央はポケットティッシュを出して、俺の鼻に当てた。そのまま、ティッシュで包まれた理央の手にむかって、ふん、と鼻をかむ。それを、ゆるゆると微笑みながら見つめてくる後輩に、顔に熱が集まる。
理央がそのティッシュを丸めている間に、手の中にあるティッシュを一枚抜いて、シャツを拭った。俺の汗なのか涙なのか、はたまた鼻水なのか、シャツがぐっしょりと重かった。
「ごめん、シャツ、気持ち悪いだろ…?」
「ん?鼻水くらい、どうってことないですよ」
ぷくく、とわざわざ堪えながら笑う理央の肩を殴る。いたーい!とわざとらしい高い声で騒ぐ理央を後目にベンチに腰を下ろす。ちちち、と虫の鳴き声が後ろから小さく響く。
さら、と前髪を後ろへ撫でるつけるように、大きな手のひらと長い指が優しく触れる。視線をあげると理央が、眦を下げながら柔らかい笑みで立っていた。
「冷やさないと、明日に響きますよ」
すり、と親指が目元を撫でる。まだしっとりしたそこを拭うように触れてから、その指は離れていった。思わず自分の手で追いかけそうになったが、理央がすぐに隣に腰掛けた。
「…喧嘩したんですか?」
向かいのベンチを見つめながら、口元は柔らかいままで理央は俺に尋ねた。どき、とした。どう、説明すればいいのかわからなかったからだ。あまりにも残酷な現実に、口を開けて固まってしまった。それを横目でちらりと見てから、理央は膝にひじをあてて、指を組んだ。
「まあ、どうにしろ、ちゃんと話した方が良いですよ」
え、と顔を見上げると、理央は俺に振り向いて、口元を緩めたまま話した。
「恋人とうまくいかないときこそ、ちゃんと話しあった方が良いです」
ね、と笑顔で同意を求められる。
どうして、と頭がこんがらがってしまう。
そうか、そうだよな。
理央は、俺のこと、もうただの先輩だと思っているんだから。そりゃ、応援するよな。
つい、ぐ、と手のひらを握って力をこめてしまう。好きな人の恋路なんか、俺だったら、応援できない。こんな風に、笑いながら、背中を押せない。
「そ、うだな…」
茫然と、目の前の景色から色が抜け落ちていく感覚がする。爪先は力を込めているのに感覚も温度もない。
「ちゃんとお別れしないと、前に進めないでしょ」
頭の中がぐちゃぐちゃでそちらばかりに意識がいっていた俺は、夏風に揺らされた木々のざわめきで、理央の小声の囁きに気づかなかった。
思い悩んでいる俺に対して、理央は、にこ、と微笑みかけてから立ち上がった。
「明日も頑張らないとです。りん先輩」
自分のことで悩んでいる場合ではない。その通りだ。学園のために、俺にしか出来ないことがたくさんある。
しかし、心の整理が追いつかなくて、俺なんかが何ができるんだという言葉が浮かんでから、そればかりに意識がいってしまう。また視線が澱んでいくと、理央は、俺の目の前にひざまずいた。え、と驚くと、冷たい俺の手を、温かい理央の手が包む。
「何かあったら、俺がいますから。だから、大丈夫です」
にこりと優しく微笑みかけてくれる、目の前の理央に、ぐずぐずとまた涙が滲んできてしまう。そのまま、身体を前に倒し、理央の肩に頭を押し付けると、優しく頭を撫でられ、ふんわりと抱きしめられる。仕方ないですねえ、と困った赤ちゃんをあやすような母性溢れる一言が降ってきて、思わず笑ってしまった。
理央。…理央。
心の中で何度も名前を呼ぶ。
「はいはい」
一瞬、それが伝わったのかと顔を上げるが理央は、月夜に光る大きな瞳をこちらに向けながら、どうしました?と首をかしげた。
違ったのか、と笑いながら、心地よい肩口にもたれかかる。
理央。
もう一度、名前を唱えると、温かい手のひらが頭を包んだ。さわさわと撫でてくれる。あまりにも心地よくて、愛おしくて、涙がもう一粒、ひっそりと流れ落ちた。
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