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第47話

 ぺり、とガーゼを剥がすと、殴られた頬は、もうほとんど治っていた。口の中も、まだ温かいものを飲むと沁みるがそれ以外は困らない。手首の痣はまだ色濃く残っているが、長袖を着てしまう季節柄、目立ったことはない。  それなのに、風紀の仕事に参加することを総一郎が良しとしてくれない。周りの風紀のメンバーも許してくれない。役に立たないから、ではなくて、被害者になってしまった俺の心のケアを周りの気の良い仲間たちは気にかけてくれているのだ。嬉しく思うと同時に、申し訳ない気持ちにもなる。ただでさえ、人員不足だと言うのに…。  あの事件以来、発生件数はゼロだ。なぜなら、噂が噂を呼び、風紀を逆恨みしたやつらが襲い掛かったら、ボコボコにされた挙句逆にレイプされ、そのままヤクザへと闇落ちし、今は貨物船の中で海外に向かっている…というとんでもないことが生徒たちの中で飛び交っていたからだ。逆レイプとは全く不名誉なことだが、それが抑止力になったのなら、俺の被害も損にはならなかった。そう笑うと、理央に叱られた。もっと自分を大切にしろって。女の子でもオメガでもないんだから、心配しすぎだと言うと、理央だけでなく笹野や奥野にも叱られた。  みんなが汗水たらしているのに自分だけ寮でのんびりすることは出来ず、今、指令本部にいる曽部の隣で、報告書などの書類仕事を請け負っている。自分の事案を自分でつくるのはなんだか変な気分だが、ぱちぱちと指を進める。  被害にあって、どんなトラウマが残ってしまうだろう、と不安に思っていたが、今のところ、まったくその気配は感じない。倉庫も平気だし、アルファへの拒否反応も特別感じなかった。周りにいるアルファが誠実で良い人たちばかりだからかもしれない。何よりも、襲ってきたのもアルファだが、俺を助けてくれたのもアルファだったからだ。あいつらと理央を同じ扱いにしたくない。あいつら、アルファやめねえかな、と心の中でうっすら思ってしまう。きっと、今自分がこんなに心身ともに元気でいられるのは、風紀の仲間と、そして理央がいてくれたおかげだとしみじみ思ってしまう。特に理央が、傷つけられた俺の身体も心もすべてを温かく優しく、俺が気づかないくらい自然にそっと癒してくれた。  事件のあったあの日。  夜中に海智から折り返しの着信があったのを、翌朝の通知で知った。あの日以来、海智と連絡を取っていない。どうしても、恨み言を言ってしまいそうで怖いからだ。  なんで、あの時に限って出てくれなかったのか、と。  そうすると、必然的に、あの事件の話をしなくてはならなくなる。それは、言えない、と思った。アルファに汚されそうになったなんて、ベータとしての、男としてのプライドとして、口に出来なかった。それを言ったところで、海智が困ってしまう気もした。だから、風紀の仲間以外に他言するつもりはなかった。言う必要もないだろう、と考えていた。  もうあれから一週間が経っていた。最初は、メッセージもいつも通り着ていた。でも、返信できずに既読だけつけていたら、今はもう連絡は一切来なくなってしまっている。 「りん先輩」  声がして振り向くと、理央がブレザーを着て立っていた。時計を見ると、気づかぬうちに、今日の活動が終了していたのに気づく。 「悪い、今、急いで準備する」  がさがさと、パソコンを閉じたり筆記用具をしまったり、身支度を手早く終わらせて、曽部に挨拶をして風紀室を出る。あの日以来、巡回が終わると、理央はわざわざ風紀室まで迎えにきてくれるようになった。そして、寮まで送ってくれる。以前よりも砕けた笑みを見せてくれるようになった理央に、頬が緩む。いつも通り、昇降口を出るとそこに人影があった。ぬ、と出てきた男に一瞬、どきりと心臓が止まるかと思ったが、その人物を認識してさらに固まる。 「りん…」  海智がそこに無表情で立っていた。ちらり、と理央を睨みつけてから、声をかけようかどうしようか悩んでいた俺の手を取る。 「おい、あんた、なんだよ」  理央が後ろから俺を抱きしめて、海智を睨みつける。その動作に海智は見たことのない顔で怒りをあらわにしていた。いつも穏やかに微笑んでいる海智しか知らないのだ驚く。 「俺はりんに会いに来たんだよ…」  あ?と理央がまた食ってかかりそうだったのを、胸を押して制す。 「大丈夫、ちょっと話すだけだから…」  先に帰ってろ、と微笑むと、理央は訝し気な顔をして、待ってます、と海智を睨みつけながらはっきりと答えた。ここが譲歩案だな、とうなずいて、海智に向き直った。 「すみません、後輩待たせてるんで、手短に…」  理央の姿が見えないところまで歩き、ようやく海智は歩を止めた。 「ねえ、りん」  背中を向けていた海智が振り返った。表情の読めない顔で、何を考えているのか見えなかった。こうやってわざわざ人と一緒だったのに、それを遮って話をされるのは初めてだ。 「電話、何だったの?」 「…電話…」 「先週、電話くれたよね?」  ぴくり、と指先が動く。それを隠すように、もう片方の手で包み握る。 「あ…特に、用はなくって」 「…うそ」  ぎゅ、と手を不意に握られて、ぞわ、と虫が這ったように腕から背中にかけて悪寒がし、鳥肌が立つ。でも、振り払うこともできなくて、唾を飲んで耐える。 「嘘じゃないですよ、本当に、いつもの雑談ですって」  握られた手をやんわり放すように、笑顔で笑い飛ばし、相手の手を押し返す。それなのに、今日の海智はしつこかった。 「じゃあ、なんで、あの日から連絡くれなくなったの?」  どき、と図星をつかれて、頬の筋肉がぴくぴくと固まる。強く握られた手から、全身にぞわぞわと鳥肌が強く立つ。 「ねえ、あの日…何かあったんじゃないの?」  海智は、眉を寄せて、本当に心配している。心配してくれている。俺のことを。  嬉しいはずなのに、近づいてこられて、一歩下がる。それを見逃さないように、海智はさらに距離を縮めた。 「何があったの?」 「何も、な、いですよ…それより、せんぱ、ちか…」  熱くもないのに、冷たい汗がだらだらと額から、こめかみから、うなじから、垂れ落ちる。じり、と後退るのに、怪しんだ海智はより詰めてくる。 「言えないんだね」  その通りだ。言えない。海智には。  悲しそうに笑んだ海智は、俺の手を引き、抱き寄せた。その瞬間、目が回った。脳みそを手づかみで揺らされたような気持ち悪さがして、吐き気もある。必死に喉をしめて、やり過ごそうとする。 「…俺、どんなりんでも、変わらず好きでいるよ」  こんな時に、俺が恋焦がれていた言葉を言わないでくれ。膝もがくがくと震えそうになるのをなんとか力を込めて踏ん張る。 「だから、連絡はほしいな」  力なく海智は笑うと、おやすみと囁き、頬にキスをして、俺の隣を通り過ぎて、来た道を帰っていった。海智の姿が見えなくなるのを確認すると、我慢していた膝が、簡単に崩れ落ちてしまった。 「先輩っ!」  後ろから理央が走ってきて、コンクリートの上に座り込んでしまった俺を抱え上げた。近くにあったベンチまで、迷わずに横抱きにして運んでくれる。寒くないのに、身体はがたがたと震えが止まらない。顔から血の気がひいていって、頭もくらくらする。気持ち悪い。胃がぎゅうと縮んでいる。呼吸も上手にできなくて、苦しい。  ふ、と身体が楽になった。なんだ、と思い、虚ろな目で横を見ると、理央が心配そうに眉を下げながら、温かい手のひらで背中を撫でてくれていた。 「先輩、俺の飲みかけだけど…」  そういって、ペットボトルの水を差しだしてくれる。ふ、と笑って、それを有り難く受け取り、口をつける。一口飲むと、身体の震えが落ち着いていった。 「ごめ…ちょっと、肩貸して…」  理央の広い肩に額を当てる。理央は頭や背中を優しく何度もさすってくれた。  優しい後輩に心が緩んでいく。呼吸も気分も元に戻り、大きく深呼吸をする。体調は見事に元通りになった。 「ありがとう…もう、大丈夫」  離れようとすると、理央がぐい、と頭を引き寄せて、もう一度、同じ姿勢に戻す。 「もう少し、やすみましょう」  ふんわりと、身体を包む、優しいチョコレートのような甘い匂いに心がほぐれていく。 「ありがとう、優しい後輩よ」 「…優しいでしょ、僕」  誇らしげに言うから、一緒に笑う。  ぼんやりと、自分の身体の異変について考えた。  海智に対して、こんな反応、今までなかったのに。なんでだろう。やっぱり、この前の事件のせいなのか。アルファに対しての接触反応が、後遺症として残ってしまったのだろうか。  ふ、と思い、顔を上げると、理央が心配そうに微笑んでいた。あれ、こいつもアルファじゃなかったっけ?そう思うが、また頭を彼に預ける。でも、理央は特別だ。アルファの中でも、特別。総一郎や曽部もアルファだが、ああいう接触はなかった。ああ、俺、もうアルファがダメな身体になっちゃったんだな、と思う。でも、取り立てて、焦りや不安はなかった。  理央に対しても、あんな風になってしまうときが来るのだろうか、と思うと、不安になるが、今、平気だし、それに、俺と理央がこれ以上の接触を持つことはないんだ、と目をとじて自分に言い聞かせる。だって、良き先輩と良き後輩なのだから。だから、この背中を撫でる優しい手のひらに期待してはならないのだ。 「もう、本当に大丈夫」  身体を起こすと、飲みますか?と飲みかけのペットボトルを差し出してきた。ありがとうと笑顔で遠慮しておく。こうやって、同じものを飲みまわすのだって、同性同士なら一般的なことだろう。理央は、ちぇ、となぜか唇を尖らせながら、それをカバンにしまう。そして、カバンを開けた時に、あ、と言った理央は、ごそごそと中を漁った。 「先輩にお願いがあって。俺、実はばあちゃんがアメリカ人で、よくアメリカに遊びに行くんですよ」  カバンの中身を漁りながら、理央は続けた。 「んで、ばあちゃんちの近所に住んでる人が教えてくれたおまじないがあるんです」  はい、とカバンから出した小さな紙袋を俺に渡した。受け取って、小首をかしげると、理央は楽しそうに微笑みながら、開けてみて、と先を急かした。その袋を開けて、中身を手のひらにだすと、シルバーのプレートのネックレスが出てきた。プレートには小さく「R」と彫られており、月光にきらりと、プレートにはめ込まれたダイヤのような石が輝いた。 「今の話と、これが、どうつながるわけ?」  よくわからずに、眉間に皺を寄せていると、理央がそのネックレスを手に取った。 「相手の名前が入ったネックレスをいつでも肌身離さずつけておくと、悪霊が近寄ってこないっていうおまじないです」  金具を外した理央は、腕を伸ばして、俺の首にそのネックレスを付けた。 「これじゃ、校則違反だろう…」  呆れて溜め息をつきながら、ネックレスに触れる。 「じゃあ、こうすればいいです」  ワイシャツの襟の中に理央はネックレスを隠した。ちゃり、と首元で揺れてくすぐったい。 「そういうことじゃ…」 「ああ!ダメです!」  外そうと、後ろに手を回すと理央が大きな声で止めた。 「一回つけてから、外すと悪霊はより大きなものになって、その持ち主を襲うんですっ」  だから、もう外せません、とにっこりまぶしい笑顔を向けてくる後輩を、じとと睨みつける。ささ、早く帰りましょうと、小言を言おうとした俺に気づいたらしく、敏い後輩は腰を上げた。

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