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第48話

 翌朝、携帯を一応開くと、海智からのメッセージが入っていた。消そうとした指をとめて、溜め息をひとつ零してから適当に文章を打って送信する。昨夜のように突撃され、接触されたときに冷静を装える自信がなかったからだ。  どんなことがあっても朝食だけしっかり食べられる健康な身体も、なぜか昨日の気持ち悪さのせいか胃がむかむかしてほとんど手をつけられなかった。早めに朝食を切り上げて、カバンを持って寮を出る。いつも寮先で俺を待っているのだが、今日は不在だった。少し時間が早いからか、と待とうかどうしようか悩み、携帯を開くと、海智からメッセージが入っていた。 『迎えに行くから、待ってて』  いつ、どこに?と首をかしげて、そう聞こうと上下左右に指を動かしてメッセージを歩きながら打ち込む。  とんとん、と肩を叩かれて振り返る。相手を確認できるよりも前に、勢いよく、しゅ、と何か強烈な甘い匂いのする飛沫が顔にかけられて、目が痺れるように痛んだ。急いで顔を覆い後ろに後退るが、平衡感覚を失い、倒れ込んでしまう。白くぼやける視界で、黒い毛玉のような頭が見えた気がした。力が入らない身体は、コンクリートに頭を殴打してしまい、意識が途絶えてしまった。  ばたん、と何かを叩きつけるような音がして、意識が次第に戻ってきた。またひりつく瞳を何度かしばたたかせて、少しずつ視力を戻していく。ぼやける視力で辺りを見回すと、ワンルームの部屋のようだった。カーペットの上にごろりと寝かされていた俺は、身体を起そうとすると、先日体験した拘束具のようなものをまたはめられているようで、手足の自由が利かなかった。  なんで、こうも簡単に拉致されてしまうのだろう、とほとほと自分に呆れてしまう。 「あれ、起きた~?」  頭上から声がして顔を上げて、目をしかめると、うっすらと見える。目の前に椅子を持ってきて、優雅にペットボトルをあおぐ黒いもじゃもじゃ頭の分厚い眼鏡をした小柄な男が立っていた。 「な、なんで、お前が…」  ぷっはあ、と一気に中身を飲み干したもじゃもじゃは、ふたをしめてシンクにそれを放り投げた。がん、と強い音がして、勝手に肩が震えた。煩わしそうに、そのもじゃもじゃ頭のカツラと眼鏡を脱ぎ捨てると、さらさらと絹糸のような細く、光を反射させる金髪と、すべての光を集め輝くサファイヤのような瞳が現れる。  椅子をまたぎ、背もたれを前にしてその上に手をおき、こてんと愛らしく首を傾けて、にたりと本薙は笑う。 「諦めの悪いベータちゃんに現実を見せてあげようと思って」  どっ、と嫌な鼓動がする。  視線だけ動かして、何か助けになるものはないかと探す。それを見過ごしたように、目の前の天使は、くすくすと可憐に笑った。 「無駄だよ、ここはオメガシェルター。危険なものもないし、防音もばっちり」  ベータ寮とオメガ寮の丁度、中間地点ほどに、発情期をむかえたオメガを隔離するためにシェルターがある。ここは、オメガが自分で申請をして使える部屋だ。そして、その部屋を使用できるのは、発情期をむかえた対象のオメガと、その発情を抑えるためにオメガが選び申請を出したアルファだけだ。  まさか、こいつ、発情期なのか…と顔を見上げるが、平然としている。 「ああ僕がヒートかどうかって?違うから安心して」 「じゃあ…」 「どうして、ここが使えるんだって?」  言いたいことを一言違わず言い当てる本薙を訝し気に見つめると、したり顔で彼は笑った。 「僕ね、人の心を読むのが人よりちょっと、得意なの」  てへ、と舌を出して微笑む姿は愛らしいはずなのに、今の俺にはそら恐ろしく見える。 「僕がお願いすると、叶えてくれる人が世の中にはたっくさんいるの」  両手を顎に添えて、潤んだ美しい青の瞳で上目遣いをして見せる。  何から何まで、この学園はお前の望み通りになってしまうということか。その思うと、今までの学園の動乱を思い出して、奥歯を噛み締める。 「でも、君は、僕の忠告を何度も無視したよね」  ひた、と足音がして、目線をあげると、天使が鬼の形相で俺を見下ろしていた。しゃがんで、先ほどの顔が嘘のように、にっこりと天使の顔に戻る。 「僕、自分のアルファがちょっかい出されるの嫌なの。君はまだわからないの?」  君はまだわからないの?  しっとり囁いた本薙に、右頬をつ、となぞられる。頭の中で警鐘がガンガン鳴り響き、ぞ、と鳥肌が立つ。もしかして、と目を見張る。俺を襲わせた真犯人って…。由愛を襲わせた同じ人間が俺を襲ってきた。つまり、由愛を襲わせた、すべての始まりの真犯人は。 「さあ、何のこと?」  何も言葉を発していない俺に、さら、と前髪を揺らして本薙は笑う。あ、そうだ!と思い出したように本薙は人差し指を立てた。 「先週さあ…、君、何してた?」  先週。そう言われて、先ほど考えた事件が頭に浮かぶ。俺が、倉庫でアルファに襲われた、あの日。 「あの日、君、誰に電話した?」  あの日。こいつは、知っている。あの事件のこと。  俺と風紀しか知らない、あの事件のこと。  さらに、あのアルファたちは一人だけ電話をさせてやるとわざわざチャンスを俺に与えた。なぜだろうと気になっていた事柄。あのチャンスによって、俺はさらに地獄に叩き落された気分になったのだが。と思い出して、息がつまる。まさか…  見上げると、本薙は、嬉しそうに微笑む。 「あの日、君が電話をかけた相手が、何してたか知りたい?」  乾いた喉が嫌で唾を飲みこんだ。それなのに、渇きは全く癒えない。  それはね、とピンク色の潤んだ唇が、ゆったりと動く。 「あの日、朝から晩まで、ずうっと、僕とエッチしてたの」  ぐら、と視界が揺れた。ぱた、と頭が床に落ちた。眼がぐるぐる回っている気がする。気持ち悪い。 「もうさ、海智のちんちんが全っ然、おさまんなくて。ずっと中出しされっぱなしで本当に妊娠しちゃうかと思ったんだよ~?」  呆れたように眉を下げて、俺にはない臓器があるであろう下腹部を撫でながら本薙は可愛い声で放った。 「お前、一体…」  顔から血の気が引いていく。唇も口の中もかさついて、はりついて言葉がうまく出ない。出せても、情けなく震えたものしか出ない。  ふふ、と本薙は無垢な少女のように笑いながら立ち上がり、近くのチェストの引き出しから何かを取り出す。それを首元につける。おそらく、オメガがうなじを噛まれないように守るネックガードだ。かちゃり、と言って先ほどつけられたそれは、簡単に取れてしまう。それを指先で回しながら、本薙は振り返って俺にはっきりと言った。 「全アルファを虜にしてしまう人類史上最強のオメガ。それが、」  ぼく、と桜貝のように可愛らしい爪を付けた細い指で自身の頬を叩く。俺を見下すように、にんまりと笑うと、腕を組み肩眉をあげる。 「でもさ、こういうのってベータにはわかんないんだよね。オメガはフェロモン巻き散らしてアルファをそそのかしてるって言われちゃうし」  社会において、オメガは弱い立場にある。身体がもちろん弱くつくられているのもあるが、その発情期という獣じみたものを背負っていることによって、人扱いをしない差別的な人間が一定数いる。また、アルファでもオメガを何人も番いにして、性奴隷として扱い楽しむものもいると聞く。しかし、そんな風に囁かれてしまうのは、世の中の人口のほとんどを占めるベータたちが、アルファを独り占めするオメガへの妬み嫉みが原因だという人もいる。 「今まで、君の前で見せてきた海智は本能のままに僕を求めてた」  海智、と名前が出て、目を見張る。そして、すぐに顔を背けた。何度も見せつけられてきた光景が、脳裏に蘇ってくる。 「でも、本能、なんて言ったって、ベータの君は感じたことないからわからないよね?」  ふふ、と嘲笑う本薙を睨む。それをもろともせず、むしろ嬉し気に本薙は笑みを深める。目の前にしゃがみこみ、俺と目線を合わせる。深い海のような瞳は何を考え、何を見ているのかわからなかった。 「今、僕は発情期でもないし、フェロモンも出していない。そして、この部屋には、僕と君の二人だけ。ここには、アルファの本能を刺激するものは何もない。理性が勝る部屋だ」  思わず、鼻をすん、と鳴らしてしまう。確かに、フェロモンの匂いは何もしない。本薙にしては珍しいと思ってしまう。 しかし、本能だとか理性だとか、目の前の男が何を言いたのかわからない。眉根がより深く皺を刻む。そんな俺に甘く微笑んだ本薙は、頬に優しくキスをした。ますます奇怪で理解のしがたいこの男に、心拍数はみるみる上がるのに、身体は比例するようにどんどん冷えていく。こめかみを汗がつたう。そのままの状態で本薙はうっそりと耳元で囁いた。 「だから、お前たちベータの土俵で戦ってやるよ」  低く、乱暴な物言いに本当にこいつが言っているのかと、さらに汗がにじむ。ゆっくりと離れていく本薙は、天使の笑みを浮かべていた。  俺は、こんな化け物と今まで対峙していたのか。  ようやく気付いた。こいつは、化け物だ。  本薙は機嫌よく鼻歌を歌いながら、椅子を移動させはじめる。ん~、ここかな、こっちかな~と宝物を隠すように楽しそうだった。その楽しそうな姿を見れば見るほど、俺はこいつが理解できず、大きな恐怖に襲われる。 「やっぱり、君が入ってきてすぐに目についた方が有利だよね?」  よし、と位置を決める。玄関と思われる場所から、まっすぐ廊下を歩き、目に入る位置に一脚。その隣、扉の影になっていて部屋の中まで入らないと見えない場所に一脚。  倒れている俺の腕を、よいしょ、と険しい顔をしながら持ち上げて、俺を立たせる。足首も拘束されていて歩きにくいのを、本薙は肩を貸して移動させる。どさり、と玄関からまっすぐの場所に置かれた椅子に俺を座らせた。その際に、首元からちゃり、とネックレスがこぼれた。手首の拘束具と椅子を紐で縛りつける。ふう、と呼吸をとると、本薙は長い二本の結束バンドをポケットから出して、ドアの影になっている椅子に座った。そして、自分の足首に結束バンドを巻き付けて固定する。 「なに、して…」 「んう?」  手首にも同様に結束バンドを巻き付けて、端っこを歯で噛み締めて、バンドを引き締める。 「こうやって、僕と君、二人が同じように監禁させられていたら、海智はどっちを助けるかな?」  にたりと笑う。ひや、と背筋が凍えて、身体が小さく震え出すのがわかった。  顔の前で拘束した手首を器用に足をくぐらせて、後ろ手に回しながら、本薙は、大丈夫だよと笑った。 「海智は僕の優秀なアルファだから、すぐに見つけてくれるよ。それに…」  本薙が俺の胸元を見ていて、不審に思い視線をさげると、昨夜つけられた理央のネックレスが揺れている。 「君にも番犬がついているようだし、すぐ来るよ」  おい、どういうことだ。お前は一体何者なんだ。  そう問いただそうと口を開くと、ぽた、と汗が一滴落ちたのと同時に、ドアがガンガンッと大きな音をたてた。びく、と目をつむり、肩をすぼめる。 「あれ、予想より早いや。優秀だろ、僕のアルファ」  くすくすと楽しそうに笑っているのに、どうしてこんなにも不気味に見えてしまうのだろうか。本薙早苗とは、いったい何者なんだ。 「さあ、海智が理性で選ぶのは、君かな?それとも、僕かな?」  ようやく答えが出るよ、と本薙はうっとりと微笑む。どうして、今、この状況でそんな顔が出来るのだろうか。  玄関の前で数人の声が聞こえて、ガチャガチャとドアノブが鳴る。ピピ、と電子音がした後、かちゃり、と思ったよりも軽い音で開錠された。  本薙の悪趣味な遊びに付き合うのは、ほとほと嫌だし、こんなのはおかしい。そうわかっているのに、海智に選ばれたいという欲求が胸をしめているのも事実だった。

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