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第49話

「もし出来るなら、一緒に、いてほしい」  初めて海智の涙を見た夜。  あの言葉を思い出す。ベータの俺と別れることを嫌がった、海智。  そして、最後の約束。  海智が、俺だけを見てくれるなら、一緒にいると約束した。 「…俺、どんなりんでも、変わらず好きでいるよ」  昨日の夜。連絡が来ないことと理央に嫉妬した海智が泣きそうな顔で俺に囁いた言葉。 『迎えに行くから、待ってて』  朝、最後に見た海智からのメッセージ。  おそらく、寮に迎えに行くから待ってろ、という意味だったけれど、今のシチュエーションにぴったりで笑えてしまう。  まるで、海智がこうなることを予想していたみたいだ。  四年前の七月。花火に照らされた幼い海智の顔が思い起こされる。顔を真っ赤にして、キスをした。鼻も歯もぶつかって、全然恰好がつかなかった。それでも、まっすぐな海智の愛を感じて幸せだった。  今年の七月。花火に照らされたのは、大人っぽく艶やかでさらに凛々しくかっこよい海智の顔。  「やり直そう」と真摯な瞳に捕まって、うっとりとキスをした。  でも、もうつないだ手も温度も、唇の甘さも、俺は思い出せない。  それでも、海智の一挙一動に喜んだり落ち込んだ毎日や、俺だけにむけられたとろける微笑みを、無邪気な子供のような笑顔を、好きだと言った顔を、忘れることはできない。  先輩…  心の中で唱えた。  ガチャ、と勢いよくドアが開け放たれると、真っ先に海智が飛び込んできた。靴を脱ぐことすらも忘れて、息を乱した海智が目の前に来た。 「せんぱ…っ」  ぎし、と本薙にきつく結ばれた手首と椅子が鈍く軋んだ。  すぐ目の前にあった海智の瞳は俺を捉えていた。  なのに。 「さなっ!」  部屋に駆け込んできた勢いのまま、部屋中をぐるりと見渡し、本薙の姿を見つけると、倒れ込むようにやつを大きな身体で包み込んだ。ぜーぜーと濁った呼吸音がここまで聞こえる。  海智が本薙を抱きしめるより、もっと先に、俺の身体もぎゅう、と力強く締め付けられて、熱を与えられたのに、気づかなかった。 「かいちぃ、こわかったよお…」  本薙は、甘えるように海智に擦り寄り、涙を流していた。そして、俺を見やると、興味なさそうにすぐに視線を外した。心配するように全身を確認するアルファに、安心させて…と魔性の瞳でそのオメガは甘く囁き、熱い口づけをかわしていた。 「は、はは…」  力なく項垂れ笑う俺を、きつく抱きしめ、目を真っ赤にして心配そうに見つめる理央が視界に入っているはずのに瞳から伝達されなかった。自分たちに浸っているアルファとオメガを後目に、理央はすぐに俺を抱き上げて部屋を出た。珍しく焦りの色を隠さない総一郎に理央が言葉少なに交わして、すぐにオメガのシェルターを出た。そのまま寮に戻らずに、理央は俺を抱きかかえたまま歩を進めた。意識の中の俺はずっとあの椅子につながれたままの状態で止まっていた。それほど、俺は絶望の渦に飲み込まれていた。  次に俺がきちんと意識を戻したのは、知らない部屋だった。高い天井、降り注ぐ光は優しくて、身体を起こすと広い窓から見える空は近い気がした。きれいなシーツのキングサイズのベッドの上だ、とぼんやり認識しだす。手首には包帯が巻かれていて、それ以外の外傷は見当たらず、清潔なナイトウェアを着ていた。  ここ、どこだろ。俺、いったい、どうしたんだっけ。  茫然と窓の外を見つめていると、遠くで足音が聞こえた。視線を向けると、寝室とリビングが間続きになっており、ベッドの真向かいにはダイニングテーブルと青々と立派な観葉植物がある。その左手にはキッチンがあるようだった。  現れた男はコーヒーカップを机に置き、振り返ると俺と目が合う。大きく見開いた目で急いで駆け寄ってきて、突進するかのごとく抱きついてきた。思わず、ベッドに押し倒れてしまう。 「りん先輩、目が覚めたんですねっよかったっ」  ぐりぐりと、俺の首筋に顔をすりつける理央の髪の毛がくすぐったい。そこに手をおくと、少し硬い髪の毛がふわ、と沈んだ。そろそろとそれを撫でつけるように繰り返す。ぴく、と理央の動きがとまり、俺を見上げてきた。理央の眦が濡れていて、また泣いている。と頬がゆるんだ。  また、っていつのことだった…。ああ、あれだ、あの部屋だ…。  どんどん、光景が目の奥で蘇ってくる。  そうだ、俺は、朝、寮の前で意識を失って、本薙に拉致られて、それで、海智が本薙と…。  ふわ、と優しい匂いがして、は、と目の前のことに思考が戻ってくる。音もなく、柔らかく湿った理央の唇が、頬に触れた。そ、っと離れると、理央は頬を染めて、ゆるく微笑んだ。 「理央…」  震える指先で、その頬に触れようと手をあげると、理央は眦を下げて嬉しそうにその手を包み込み、自分の頬に当てる。 「はい、りん先輩…」  もう片方の手も同じようにすると、理央は同じように包み込んでくれた。指先からじわじわと、温かくなっていく。唇を開くが、頭が霞がかって言葉がでない。何度かそうするが、理央はずっと幸せそうに笑って、待っていてくれた。  なんで、そんなに幸せそうに笑えるんだ。  聞きたかったけど、上手に声に出来なかった。だから、手を離してもらって、理央の首に腕を回すと、理央は俺の望み通りに抱きしめてくれた。高い体温が、俺の心をみるみる内に溶かしてしまう。鼻腔くすぐる、優しくて甘い理央の匂いに身体もほぐれていく。今は、それだけを考えたかった。  どれだけそうしていたかわからないが、しばらくして、腕をゆるめて、理央の胸板を押した。 「もういいの?」 「…ん」  理央は、唇を尖らせながらそう囁いてきた。素直にうなずくと、もう一度抱きしめなおされてしまう。 「もう少し」 「こ、こら…」  背中を叩くが力が入らない。ぽす、と手が背中に乗るだけで終わってしまい、まあ、いいか、とそれを添えたまま、もう少しだけ、理央の匂いに包まれていたいと、まぶたを降ろした。 「ごめんね」  ふと、耳元でつぶやかれた言葉に、まぶたを持ち上げた。何がだろう、と天井を見つめるがわからなかった。理央はそのまま続ける。 「俺、守るって決めたのに。りん先輩の傍にいるって約束したのに」  ごめんね、とつぶやく理央の吐息が震えていた。背中と頭を撫でてから、手を腕の中にもぐらせる。そ、と顎に手を添えると、うながされるように理央が顔を上げてくれる。案の定、理央はまた泣いたようで眦が濡れていた。仕方ないやつ、と、ふ、と笑ってから、出来るだけ優しく目元を撫でる。 「今、傍にいるじゃん」  本心からの言葉で微笑みかけると、理央は、ぽろりときれいな雫を一滴こぼした。  そのまま理央が満足するまで、そっとしておくといつの間にか、一緒に寝てしまっていた。目が覚めると、日はとっぷりと暮れており、窓には俺たちが反射して映っていた。  理央に抱きしめられて、ぐっすりと眠ってしまった。大きく伸びをすると、腹の虫が元気に鳴いた。それに呼応するかのように理央の虫も元気に挨拶する。二人でひとしきり笑い合って、ルームサービスをバカ食いした。もう三日分ほどのカロリーを摂取したであろうと思えるくらい食べた。  ここは、学園から一番近い全国チェーンの多いビジネスホテルらしかった。部屋が広いから、おそらくスウィートの一種だろう。見える景色も随分地上から高い。  風紀と海智が突入した後、理央は俺を連れて、タクシーをひっかけ、ここに来たらしい。全然記憶がない…というと、理央が少し寂しそうに笑ったがすぐに、ぐーすか寝てましたもんね、と意地悪く笑った。だから、最後の一切れのピザを食べてやったら、とっておいたのにぃ、と涙目になっていた。  その後、あいつらは、風紀のみんなはどうしたのだろう、と気になったけれど、言いかけてやめた。今日は、もういいか。そうソファーにもたれると、理央もわかってくれたようで、すぐに風呂を沸かしてくれた。  一緒に入るか、と提案するも、顔を真っ赤にして丁重に断られてしまった。あんなに性の奔放的だったくせに、意外に初心なのか、と笑ってやると、いいから早く入ってください!と怒られてしまった。風呂は広くて、ジェットバス機能もついていて、存分に堪能させてもらった。  ぶくぶくと泡が心地よく俺を包む中で、ふ、と考えてしまう。  海智と、はっきり目があっていた。彼が息を飲むのもわかった。それでも、あの人は、あのオメガを抱きしめたのだ。そして、あのオメガは勝ち誇った笑みでも、蔑む瞳でもなくて、つまらなさそうに俺を見ていた。そして、素晴らしい演技で海智に甘えて、誓いのキスのように、唇を合わせたのだ。  本薙に言われた言葉が反芻される。今回は、本能ではなく、理性で求める姿を見せつけられてしまった。今までは、アルファはオメガのフェロモンには叶わないという通説を盾に自分を守っていたところもあった。だから、何度も本薙との行為を見せつけられても、そのぺらぺらのたった一枚の盾で自分の心を守っていた。それが、見事に貫かれて、俺の心をずたずたにしたうえで最後のとどめを刺したのだ。  アルファとオメガは運命で結ばれる。  お互いが惹かれ合い、求め合う。それが、この世の理なのだ。  その中に、ベータは存在しない。  ベータはベータ同士で結ばれるのだと世界が笑う。  ベータの俺に、アルファの彼氏だなんて、ふさわしくなかったんだ。  アルファは結局、どんなことを言ったって、オメガを結ばれる運命なのだ。  あの二人にとって、邪魔者は、ベータの俺の方だったのだ。  ジェットバスのタイマーが切れて、浴室が無音になる。もう一度、ジェットバスのボタンを押して、嗚咽を消してもらった。

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