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3 朝っぱらから迷惑な奴 2

「…っ!」  ぐ、と掌に掴んだのは、どうやら相手の服だったらしい。逃げようと暴れている。 (ふざけんな、この野郎)  やりたいだけ恥ずかしいことをしておいて、何だその小心な態度は。 「おい」  ドアが開き、乗客たちが降りてゆく。その流れに逆らうようにして力任せに腕を引く。シャツの裾を掴まれた情けない姿の痴漢が、俺の背中側から現れる。 「──駅員に突き出すぞ、てめぇ」  凄んだ声で脅してやってから、その男の顔を見た。  そして俺は唖然とした。 にっくき痴漢は、男と言うよりは、少年だった。 「え…?」  色素の薄いさらさらの髪に、耳の先まで赤くなった幼い顔。身長は俺の胸元くらいまでしかない。服装もごく平均的で、街のどこにでもいそうな子供だ。 「…ごめん…なさい…っ」  大きな瞳が、今にも泣き出しそうなウサギの色をしている。捕まえられて怯えている様子も小動物っぽい。  拍子抜けした。どんな変態野郎かと思っていたら、意外過ぎる。 「…君、年齢は?」 「えっ、あの──18歳…」 「嘘をついてもすぐバレるぞ?」  中学生くらいにしか見えない見事な童顔だ。  不謹慎極まる話だが、どちらかというと痴漢の被害対象になるのは俺でなく彼の方だろう。 「…本当です。高校を卒業したばっかり、です」  潤んだ目許が必死そうに揺れている。  少年法で言い逃れがしたいなら、あえて十八歳とは言わないはずだ。その場凌ぎの嘘をついているとは思えなかった。 「出来心と解釈していいのか?」  ぐ、と唇を噛んだ彼は、次の瞬間についに泣き出してしまった。  再び発車した電車内には不穏な空気が漂っている。乗客たちの視線が俺を突き刺して痛い。 (俺が泣かせたんじゃない…っ)  何という不利な構図だろう。  泣いている子供を捕まえている大人。これではどちらが被害者か分からない。  この場合、成人男性に対する痴漢は果たして罪として成立するのだろうか。  確かに俺の裏腿にはまだ違和感が残っているが、相手がこれでは怒る気にもならない。 「…ったく。損した。こっちの方が悪いことしてる気分だよ」  シャツを離してやると、彼はどうにか泣き止んで、ごめんなさい、ともう一度言った。  いたいけなこの瞳には騙されたくない。でも見ていると何故か胸を突かれてしまう。 「名前、教えろ」  びくん、と彼の肩が震える。  斜め掛けのバッグがアンバランスに大きく見えるくらい細い肩だ。 「伊勢(いせ)暁人(あきと)」 「大学生か」 「違います」 「フリーター?」 「…予備校に、通って…ます」 「ほう」  浪人生と聞いてしまったら仏心も湧く。  受験ストレスの弊害か、何か行き詰まって痴漢行為をしたのなら、責めるのは可哀想だ。 「いちおう聞いていいか。予備校はどこだ?」  狼狽した彼の瞳が見上げてくる。本当に、挙動が小動物に似ている。 「別に訴える気はない。でも素性が分かってれば牽制にはなるだろ」  痴漢をした相手が俺でなかったら、駅員に突き出されて犯罪者になっていたかもしれない。  変態予備軍で済ませてやる代わりに、彼のことを知っておきたい。 「教えろ」  彼はしばらく黙って、ようやく決心をしたように口を開いた。 「───立星館ゼミナール」 「はァ?」  頓狂な声を上げた俺に、また乗客たちの痛い視線が向けられた。 「僕…、先生のこと知ってます。…特進コースの新垣孝成(あらがきこうせい)先生、ですよね」  まさか俺と職場の名前が、痴漢少年の口から出てくるとは思わなかった。

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