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4 ウサギは立星館ゼミナールのホープ
(マジかよ……)
職場に保管してある、新卒生の登録名簿を見て愕然とした。
伊勢暁人。18歳。4月20日生まれ。都内の有名私立高校をこの春卒業。プロフィールに簡潔明瞭にそう記されている。
「お? うちのホープじゃん。何見てんの」
講師室のデスクで脱力していると、同僚の神崎 が声をかけてきた。
神崎は特別進学コース、略して特進コースの国立文系クラスの担当講師だ。国立理系クラス担当の自分とは年齢も同じで以前から仲が良い。
「ホープ?」
「高校を首席で出た優秀生だよ。うちのクラスに1月から通ってる。直近の実力判定試験の成績見てみろ」
神崎に促されて、伊勢の試験データを見てみる。
全科目、見たこともないような高い数字が並んでいる。
「…天才?」
「簡単に言えばな」
「東大文科一類志望。判定はAランク。これで何で浪人やってんだ」
「プレッシャーを克服できなかったとか。受験生にありがちだろ」
確かに伊勢は神経が細そうだ。
電車の中でびくびく怯えていた彼を見た後だから、余計にそう思う。
(でもやることは大胆なんだよな)
人の裏腿にアレを押し付けるのは、受験よりは簡単らしい。
俺はもうあの固い感触を忘れているが、やけに熱く感じた彼の温度は覚えている。
「どのみち将来は霞ヶ関か弁護士か、うちの予備校で最も有望な生徒だよ」
名簿の伊勢の名前を指でつついて、神崎は煙草を吸いに喫煙ルームへと出て行った。
「…厄日だ。絶対そうだ…」
伊勢との今朝の出来事は神崎には話していない。他の同僚はもちろん、上司にもゼミ長にも誰にも報せていない。
(…あのことは俺さえ黙ってればいいんだよな)
この立星館ゼミナールは生徒数の多い規模の大きな予備校だ。同じ特進コースでもクラスの違う伊勢とは接点がない。
(俺は伊勢の担当講師でもないし。放っておく方がお互いのためだ)
実際今日も、駅で別れてからは伊勢と一度も会っていない。
一緒にこの予備校に来るのは気まずく、何より彼の神経がしおれてしまいそうだったから、早々に駅で別れたのだ。
伊勢を気遣う義理はないが、俺が抱いていた痴漢像と彼が似ても似つかなくて、根っこのところで憎めないでいる。
また彼と顔を合わせる機会があったら、それとなく話を振って、もう気にするな、とでも言ってやろう。
デリケートな浪人一年生、ましてや性に多感な年頃だ。魔がさすこともあるだろうから。
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