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5 ライバル予備校からの誘い

 仕事を終えたデスクを片付けて、愛用のトレンチコートを羽織る。  帰宅の時はネクタイを少し緩めるのが俺の癖だ。 「お先に失礼します」 「あ、新垣先生、お電話です。例のアレ」 「またですか…」  職場を出ようと思っていたら、受付の職員に呼び止められた。  俺の退校時間を狙って定期的に電話をかけてくる人がいる。 「はい。新垣です」  受話器の向こうの相手が分かっているから挨拶はぞんざいだ。  過当競争にあえぐ都内で生徒数を競っている、ライバル予備校の河野塾の人事担当者だ。 『お疲れさまです』 「……よく平気でこの番号にかけてこられますね」 『立星館ゼミさんへのアピールですよ。のんびりしていると人気講師を取られますよ、という牽制も兼ねて』  同業他社からのヘッドハンティングの誘いは、実はここだけじゃない。  堂々と職場にアプローチをかけてくるのは河野塾くらいだが、たびたび好条件な話が舞い込んでくる。  少子化の影響で、より質の高い教育を受けさせようとする親が増えているのが現状だ。  予備校では生徒に求心力のある講師は良い人材として扱われている。 「自分は今の職場に恩も義理も感じています。何度連絡をいただいてもそちらに転籍する気はありません」  10年近く前は、俺もこの立星館ゼミナールに通う生徒だった。  一浪を経て大学に入り、講師のバイトを始めたのだが、生徒側の心理を熟知した講義内容が評価されて、卒業後に正式採用となった。  バイト時代から数えて7年、破格の待遇で雇ってくれた今の職場には感謝している。 『新垣先生にぜひ、うちの支店校をお任せしたいと考えているんです』 「そういったことはゼミ長に交渉してくれませんか」 『今のご発言は、交渉の余地があると判断させていただいていいんですか?』 「上の皆さんで正式に話を進めるんなら、俺はその決定に従いますよ」 『分かりましたっ。では早速検討させていただきますっ』  溌剌とした返事の後で電話は切れた。面倒くさいやりとりを終えて、俺は職場を後にした。

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