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9 ウサギとの再会 4
「どうして言わなかった。俺はお前が痴漢してるとばっかり……」
「だって──恥ずかしかった…から」
恥ずかしいのは俺の方だ。伊勢のことを誤解していた。
今朝の彼の行為は痴漢でも何でもなく、ただの不可抗力だったのだ。
「ごめんな。朝はお前のことを叱ったりしてすまなかった」
ううん、と伊勢は小さく首を振った。
怒る余裕はもうないのだろう。感じやすいウサギ。細い彼の足の間に入っているのが、この常識人な俺の右足でなかったら、きっとひどい悪戯をされていることだろう。
「──そんなんじゃ彼女つくれないぞ」
真っ赤になっている伊勢の耳元で、そう呟いてみる。
彼の両手は自分のトレンチコートの前身ごろを握り締めている。
「他のことを考えろ。導関数の基本式でも思い浮かべとけ」
きゅ、と噤んだ伊勢の唇が、女性がよくするグロスを塗ったように艶めいている。
ぽってりと柔らかそうな、質感のある口元だ。
「今キスしたらイきそうだな」
「…せ…っ…先生…っ?」
軽いジャブを喰らわせたつもりが、伊勢にはボディブローだったらしい。
こんなに些細なことまで言葉責めに変換されたら困る。
「お前、もう少し免疫をつけろ」
おおかた彼女がいた試しもないんだろう。
今日名簿で見た伊勢の出身校は学力全国トップの名門の男子校だ。そこを首席で卒業しているくらいだから、きっと勉強漬けの毎日だったんだろう。
(それにしても、伊勢のこれは病気だろう)
とくん、とくん、と自分の右足に伊勢の脈が伝わってくる。
下肢を張り詰めさせて、放ってしまいそうな本能を懸命に堪えている。
「次の駅で降りるか?」
伊勢も自分も住まいのある駅はまだ先だ。
彼は赤く充血した両目を揺らして、いやいやをした。
「歩けません…」
「バカ。ったく」
「先生…っ」
「伊勢?」
「あ──」
ひくん、と伊勢の喉が喘いだ。
日焼けをしていない、白い首元が露わになり、伸び上がるように彼の体がしなった。
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