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15 ほうっておけない

「伊勢!」  一階のロビーを走り抜けて表に出る。  アスファルトの上の水溜りを蹴って、ずっと前方を歩いている彼を呼んだ。 「待て! 伊勢!」  随分走ってから、声がようやく聞こえる距離まで近付いた。  濡れた髪を揺らして伊勢が振り返る。俺を見た途端、彼の頬は桜よりも濃い色に染まった。 「…先生…っ」 「そこにいろっ!」  逃げ出すきっかけを与えずに、一気に距離を縮める。ウサギ狩りはスピードが勝負だ。 「先生──」  走りながら折り畳みの傘を開く。やっと伊勢に追い付いて、彼をその中に迎え入れた。 「濡れてる。…入っていけ」 「でも」 「それからこれ、お前にやったものだ。返さなくていい」  ジーンズの入った紙袋を、半ば強引に握らせた。  ぶっきらぼうにしか話せない俺の前で、伊勢は視線をうろうろさせて戸惑っている。 「俺じゃどうせサイズが合わない」 「すいません…」 「…こっちに寄れ。肩、冷たいだろ」  雨で伊勢の服の色が変わっていた。  電車に乗っている訳でもないのに、俺は彼と密着する運命にあるのだ。  ひとつの傘に二人で入って、伊勢の歩幅に合わせて歩き出す。 「駅までか?」 「…はい」  彼の返事が上ずっている。ちらちら、俺の顔を見ている。強い警戒心だ。 「先生…、怒ってないんですか?」 「何を」  意地悪な聞き方をした。  伊勢がいつまでも俺に怯えた態度を取っていることに、どうしてだか苛々した。 「僕が──あんなことを、した、から」 「あんなことって?」  伊勢は声を詰まらせた。  直接的な言葉を吐いたら、このウサギはどうなってしまうのだろう。 「俺の目の前でイッたことか」  わざと掠れるような声を作って、彼の耳元で囁いた。  自分が大人であることも、教育者であることも、この時だけ忘れていた。 「とんでもないものを見せられたからな。お前のことが頭から離れない。すごく困ってる」 「…先生…っ」  伊勢が逃げようとする。細い肩を抱いて、彼を引き止めた。 「──濡れるぞ」 「いいです。……僕、だめ」 「まさかまた、屹ったのか?」  伊勢の反応が見たかった。冗談で終わるなら当然そっちの方がよかった。 「先生──」  涙を溜めた伊勢の目が、冗談を冗談で終わらせてくれない。 「伊勢…」 「…ごめんなさい…」  伊勢は両手で顔を覆った。雨に枝垂れた桜の木のように儚げだった。  弱くて小さいウサギはすぐに泣く。涙を拭いてやろうと指を伸ばしても、それにさえ感じるのを怖がっている。 (いじめたつもりはないんだぞ……)  泣かせたまま一人で帰らせるのは心配だ。  教育者としての配慮よりも、ウサギのことをもっと知りたいと、そう思った。 「お前ともう少し…話がしたい」 「…先生…」 「家まで送っていく。──二度も迷惑をかけられたんだ。俺に茶ぐらい飲ませても損はないだろ?」  おどけた風に言うと、伊勢が顔から両手を離して、泣き笑いをしながら頷いた。  講師生活丸7年、これまで生徒のプライベートには立ち入らないようにしてきた。その常識と引き換えに、ウサギ狩りは成功した。

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