20 / 36
20 ウサギの家庭訪問 5
ぐすん、と伊勢は鼻を啜った。
ストップモーションした俺の眼前で、ウサギが涙を拭いている。
「先生のことが好きだから、僕、おかしくなるんだ」
話が間違った方向へ行っている。伊勢が熱っぽい目で俺を見詰めている。
(そうじゃない。──そうじゃないぞ!)
心の中で思いっきり打ち消して、伊勢のそばから離れる。
しかし俺がそうするよりも早く、伸びてきた彼の両手が、ぎゅ、と首にしがみついた。
「伊勢…っ?」
「やっと分かった…。僕…先生のことが好きだったんだ…」
「ちょっと待っ…、伊勢っ!」
「新垣先生──」
頬に伊勢のさらさらの髪を感じる。
泣いたばかりの火照った体温。無邪気な声で、ウサギは囁いている。
「先生…好き」
伊勢の両手の力は思いのほか強く、しっかりと首に巻きついていた。
(…待てよ…そりゃないだろ…っ)
俺は小動物を侮っていた。寓話に確か、神様のために火に身を投じたウサギの話があった。
伊勢は受験さえあっさりと蹴る度胸がある。男の胸に飛び込むぐらい、簡単にやってのけるのだ。
「先生が教えてくれたから、やっと分かった。僕は先生が好き」
うっとりとしたような伊勢の囁きが聞こえる。
離してくれそうもない彼に、俺はもう抵抗する力も気力も失せて、抱きつかれたままずるずるとローソファーの上に寝転がった。
「…伊勢、飽きたらどけよ」
「いや…っ。先生が甘えろって言った…」
「確かに言ったけど──」
俺の腹の上の体重は、全く重みを感じないほど軽い。本当にウサギを乗せている気分だ。
(そんなに軽々しく好き好き言うなよ。分かってないくせに)
伊勢の言うそれと、俺の思うそれはきっと一致していない。
しかし、講義のように理路整然と説明できる自信はなかった。
「お前は子供だから、ちょっと触れたくらいで屹ったんだ。……好きとかどうのとか、そんなの関係ないんだ」
伊勢の感情と同じくらい、自分の感情も把握し切れない。
ウサギの告白に嫌悪感のひとつも湧いてこない理由が、思い付かない。
ほう、と溜息のようなものを零して、伊勢は俺を見下ろした。
「ベッドみたい…。…広い胸」
「寝心地は保証しないぞ」
「……知ってるもん」
訳の分からないことを言って、彼は曖昧な微笑を零している。
頭上にある、前髪の垂れたウサギの顔を、俺は見ないふりした。
ともだちにシェアしよう!