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23 ウサギ、大人を惑わせる 3

「どいてくれ。──伊勢」 「…先生?」  伊勢を抱き上げて、カーペットの床に下ろす。  両手で掴んだ彼の腕は簡単に砕いてしまえるくらい華奢だった。    伊勢に欲情しなければ気付かないでいられたのに。  スラックスの中で暴れそうになっている自分を、早口にしゃべることで抑え込む。 「お前のそれは『好き』じゃないよ。気持ちいいことを覚えたから、癖になっただけだ」 「違う…っ」 「…大人がみんな、俺みたいなお人よしばっかりだと思うな。お前のような子をズタボロにしたがる男だっているんだぞ。…気を付けろ」  俺は、簡単に屹って、簡単にいけるウサギじゃない。  27歳の大人。18歳の本能の前に怯える、欲望に理由が必要な大人の男だ。 「伊勢、お前はいい子だ」 「先生」 「本当は予備校に来る必要はなかったんだ。もしここにお前の親御さんがいたら、俺は説教してやりたいよ。息子の一年間を返せってな」 「先生…」  頼りない声で伊勢が呼ぶ。  もっと優しい口調で言ってやればよかった。もっと講師らしく。今自分の胸をかき乱している感情など、おくびにも出さないで。 「これからは自分のことを大事にしろ。今度こそ大学に行って、弁護士になるんだ」 「──はい」 「シャワーを浴びて着替えてこい。俺は帰るから」 「…待って…」  本棚で圧迫された部屋にウサギを置いて、俺は玄関へと駆けた。 「先生!」  背中から強く引っ張られた気がする。  追いすがってきた伊勢が俺を振り向かせようとする。 「今日みたいなことは、もうやめような。電車でもするなよ。もちろん、俺にもな」  御影石の玄関で靴を履き、ドアを閉め切るまで、背中に強い伊勢の視線を感じていた。  じっとりと汗をかくような熱視線。妙なものを思い出した。  伊勢のそれは、電車の中で感じるあの視線と似ている。彼の瞳の届かないところへ、水煙りの立つアスファルトを駆け急ぐ。 (やめてくれ。無邪気に言うな。あんな顔して……あんなに可愛くて、一途で)  子供のまま大きくなったウサギ。『好き』の意味も知らずに俺に惜しげもなく囁く。 (あいつがけなげだから同情しただけだ。可哀想だったから、ウサギを撫でてやっただけだ)  伊勢から逃げている。教育者の顔を取り繕って、自分に向かってくる彼の気持ちを否定している。彼に応えかけた自分の体を、否定している。 (───気の迷いだ。流されただけだ。好きだと言われて喜べるほど、俺は子供じゃない)  傘も差せないどしゃぶりの雨の中、スラックスのポケットに無造作に手を突っ込んだ。  その手で伊勢を抱き返していれば、玄関先で振り返っていれば、今頃自分が何をしていたか、想像したくないことばかり思い浮かぶ。 (逃げる以外、どうすればよかったんだ)  伊勢に噛まれた指先に、絡みつく彼の舌の感触が蘇る。  腰にまた熱が集まってくるような気がして、やりきれなかった。

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