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28 さよなら立星館ゼミナール

 4月20日を以って、俺は立星館ゼミナールを退職した。  正しくは同業の河野塾へのトレード移籍だが、自主退職として扱ってもらった。 「まんまとハンティングされやがって」 「向こうから三人、こっちに新鋭が来るよ。鍛えてやれよな」 「はいはい、校長センセイ」  移籍先では支店校を一校、校長として任されることになった。  講師の第一線からは退くが、今後はライバル校の運営者として、友人の神崎とも生徒獲得を競い合うようになる。  最後の勤務の日、俺の両手は生徒たちからもらった花束でいっぱいになった。  愛着のある職場を離れるのは寂しい。でも後悔はしていない。これは自分で決めたことだ。 「なあ、本当の理由を聞かせろよ。急いで辞めなきゃならない訳があるんだろ?」  業務の引き継ぎは退職願を出してすぐに完了した。  急いだ理由がないこともない。早く自分を、講師という職業から解き放ちたかった。 「……生徒に惚れちゃまずいだろ」 「えっ?」 「そういうこと」 「嘘だろ、堅物のくせに」 「本当だよ。おかげで身軽になった」  俺はウサギを好きになった。  伊勢と真正面から向き合うためには、これくらいのけじめは必要だ。 「じゃあな、神崎」 「落ち着いたら酒に付き合えよ。詳しい話を聞かせろ」 「酒だけなら付き合う。じゃあまた、連絡くれ」  空っぽになったデスク。見慣れた講師室の風景。世話になった受付の職員の顔。  ふっとよぎる感傷的な気持ちは、一階のロビーにいたウサギの姿で相殺される。 「新垣先生、7年間お疲れさまでした」 「伊勢」  とくん、と鳴った心音を隠しきれない。  まだ先生と呼んでくれる彼に、小さな罪悪感が湧く。俺が持っていた花束を見詰めて、伊勢は困ったように笑った。 「僕もお花を渡そうと思ったのに」 「もらうのはお前の方だろ?」  今日は4月20日。伊勢の誕生日だ。 「19歳おめでとう」 「ありがとう」  歳相応にはとても見えない。花は俺よりウサギの方が似合う。

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