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32 ウサギとの恋 4

「……共通テストをボイコットして、それからすぐに孝成を見付けた。僕は背が低いから、電車の中で見えるものは、天井と吊り革と、孝成だけだった」  何ヶ月も前に出会えていたはずなのに、桜の咲く頃になってようやく俺たちは言葉を交わした。過ぎてしまった時間を、取り戻したいと思った。 「でも、僕は孝成ともっと前に会ってる」 「えっ?」  びっくりしている俺の顔を見て、伊勢は寂しげに微笑んだ。 「覚えてないんだ。やっぱり」 「教えてくれよ。…いつ、どこで会ったんだ?」 「……受験するかどうか悩んでた頃、僕は夜眠れなくて、電車で立ったまま寝たことがあったの」 「立ったまま……?」 「知らない人に凭れて、僕は熟睡してたみたい。その人は少しも怒らないで、僕に優しくしてくれた。……名前は後で知ったけど、それが孝成だった」  自分の中の乏しい記憶を手繰り寄せる。  頭の奥から、とうに忘れたはずのありふれた通勤ラッシュのワンシーンが浮かび上がった。 「もしかして、数学のチャート式を持ってたブレザーの学生か?」  伊勢の顔に、ぱあっと喜びが広がる。  受験シーズンに入る前だった。確かに自分の胸で居眠りをしていた高校生がいた。 「──お前だったのか…」  思いもかけない出会いだ。偶然の悪戯だ。 「孝成が電車を降りる時に、無理するなよ、って言ってくれたの、覚えてる?」 「ごめん……。少しも思い出せない」  多分その言葉は、俺にはたいして意味のない言葉だったのだ。受験生との別れ際に何気なく言った労いに過ぎない。  複雑な思いで首を振った俺を、伊勢は溶けるような眼差しで見詰めた。 「孝成の言葉は、すとん、って僕の中に入ってきた。受験も両親のことも、僕にはとても重たかったから。無理をしてもどちらも手に入らなかった。本当に大切な方だけ、孝成が選ばせてくれた」  どく、と心臓が鳴った。  知らなかった。自分の言葉が伊勢に大きな決断をさせていたなんて。 「受験をしなくてよかった。背中を押してくれてありがとう」  感謝してもらえるほど、俺は何もしていない。もったいない。 「……ありがとうなんて、言うなよ」  自分がとてもつまらない人間に見える。  伊勢に触れていないと心細くて、彼のジーンズの腰を抱き締めて縋りついた。 「お前はいつも俺をぐちゃぐちゃにする」  大人の鼻面を引き回して新しいものばかり見せ付ける。堅い心の中に入り込んで、常識や価値観を壊してくれる。  もっと強く伊勢を感じたくて、彼の方からねだられたキスを、回数も分からないほど繰り返した。好きだ。伊勢が好きだ。

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