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第28話 運命の匂い
学校の玄関まで20mもある所でゾワゾワと寒気が走った。酒田が頷き、一人で中に入って行く。
戻ってきた酒田の手には制服の上着があった。そこから漂うフェロモンで、この上着が永井の制服だと解る。酒田の予想通り、永井が下駄箱の前で待っていたらしい。下駄箱まで20m以上離れている段階で体に反応があるなら、また疑似ヒートに入ってしまうかもしれないということで、匂いに慣れるために制服を借りてきた。
「午前中は追加の抑制剤を飲んで、借りた服でフェロモンを体に慣らしながらオンライン授業を受けましょう。それで、問題がなければ午後は教室に入ってみましょう」
保険医からそのように言われ、慶介は追加の薬を飲んだ。20分ほどすると、動悸が落ち着き、ムラムラとソワソワの間のような落ち着きの無さがなりをひそめ、体の反応が収まっていく。反対に、副作用の頭痛がちょっとする。
それでも、まずは薬が効いてくれたことに安堵した。追加の薬が効かなかったら今後、ずっとオンライン授業になる予定だったのだ。それはさすがにつまらない。
1錠で4時間は効果が持続するから次は昼に飲めば良いはずだ。
しかし抑制剤は、あくまでフェロモンに反応する脳の活動を抑える薬であって、匂いそのものを感じなくさせてくれる訳では無い。
永井の制服からは絶えず甘く誘うような匂いがして、慶介は授業に向けるべき集中を妨害される。
昔、まだガキだった頃、ショッピングモールの香水コーナーの試し嗅ぎを友達と一緒に片っ端から試す遊びをしたことがある。『これがバラ~?』『これラベンダーだって~』『あ、りんごだ~』『こっちミカン~』などと言っていた中に、大人向けの本物の香水も置いてあった。
ガキだった俺たちにとってそれらは、いい匂いとは言い難く、変な匂い、臭いと散々な評価をしていたが、その中に心惹かれる匂いが1つだけあった。
本物の花の匂いなんて知らないけど、フローラルと書いてあったから、多分、花の匂いなのだと思う。その子供向けではない複雑な要素が含まれた本物の香水の香りに『これが大人のイイ匂いなんだ』と子供心にドキドキしたのをハッキリと覚えている。
永井のフェロモンは、その匂いがする。
ずっと嗅いでいたいくらいイイ匂いなのだ。
なので、隣に置いていたはずの制服はいつの間にか膝の上に、無意識の状態では制服の袖を鼻元に持っていき匂いを嗅ぎながら授業をイヤホンで聞いていた。
本当に、体が疑似ヒートになってしまわなければ『いい匂い』で済むというのに。
様子を見に来た酒田には、薬がちゃんと効いていることと、永井の制服を絶えず嗅ぎながら授業を聞いていたことを、恥ずかしさに顔を覆いながらも正直に話した。
昨日、景明から恐ろしく真剣な顔で言われたのだ。
『警護には隠し事をしてはならん。些細な隠し事が後に大きなトラブルにつがなることなる。警護に対して恥ずかしいとかいう感情を持つな。警護する側はそれをからかったり、囃し立てたりすることは絶対にせん。わかったな?』
恥ずかしさを耐えて報告した慶介に対して、酒田は少し困った顔をしながら言ったのは『そうか』の一言だけ。
午後からは教室に戻ることにしてみた。ちょっとだけゾクッとしたけど、それ以上の症状は出なかったので薬がしっかり効いていることに胸をなでおろした。
慶介の席は廊下側の後ろから2つ目の席に変わっていた。気になる永井の席は窓側一番前の対角線上の最も離した席。
「酒田がどうしてもというから対角線上にしたよ。どうせ、そのうち隣か前後にしてくれと頼むことになるんだ。早いところくっついてくれ」
「席替えってそんなに面倒なのか?」
「細かい希望を考慮するとすごく面倒だよ。婚活中のアルファはオメガの隣や前後にしてくれって言うし、補佐はそういう奴らは遠ざけてくれって、真逆のことを頼んでくるし。そのくせ、窓際がいいとか前の方の席は嫌だとか」
「ぉう・・・そんな面倒な風紀委員を2年も、お疲れ様です」
「知らないだろうから言っておくが、風紀委員にはその分、縁故採用というメリットがあるんだ」
「エンコ、採用?」
「その顔、解ってないだろ? ・・・コネ入社だよ。バース社会では一部の職業で強いコネがなければつくことができない職種があるんだ。風紀委員にはそれが約束されてる」
「え、なに、木戸はもう就職先が決まってるってことか?」
「そういうアルファは多い。バース性は20万人ちょっとしかいない狭いコミュニティだからな」
福富にも聞いてみたところ、婚約者がいるアルファや補佐のアルファの半分は就職先が決まっていた。
肝心の授業はというと、チラチラと視線を感じるものの、接触してこない永井に安堵しながら、安全マージをとって3時間ごとに薬を飲み今日を乗り越えた。と、思っていたら突然、永井が声をかけてきた。
「放課後なら良いんだろ?」
「は? 何のこと?」
永井の視線は後ろの席の酒田に向いていた。慶介にかけられた言葉ではなかったらしい。
酒田を見ると強い警戒モードだ。
「あぁ。約束は守れよ。誘引フェロモンは絶対に使うな。挨拶レベルでも禁止だ。疑似ヒートになったら即刻帰る。お持ち帰りは許されない」
「わーってるよ。あと、接触はお前が同席中のみだろ」
「・・・すまん、慶介。服だけでいいって言ったんだけど」
フェロモンの慣らしには永井の協力は欠かせない。今日のところは服で慣らしをしたかったが、これは、いわゆる『服じゃなくて本物がいるだろ?』ってやつだ。R15指定漫画のヒートの巣作りでオメガが服集めてるシュチュエーションでだいたいアルファが現れてそう言っていた。
「服は、だめか。・・・欲しかったんだけどな」
フェロモンの慣らしはとにかく浴びる量と時間が長いほど早く終わるので、正直、服は欲しかった。抑制剤が効いたままの学校だけでは大胆な慣らしができないし、慣れを把握するのにも時間がかかってしまう。
「全然、ダメじゃないっ!」
永井が両腕を掴み、前のめりになって言う。
「服なんていくらでもやるっ! そういうんじゃなくて、フェロモン過剰反応おこした事があるからしばらく接触禁止だって言われてさぁ。でも、少しでも一緒にいたくて、せめて放課後だけでも、って意味で言ったんだ!」
「じゃあ、服は、貰えるのか? 助かるよ。早く慣らしたかったから」
腕を掴まれるくらい近い距離に『あんまり近いと症状が出てしまうかもしれない』と離れてもらう。
肺いっぱいに広がったフェロモンで脳が痺れた。椅子に座ってたからバレなかったけど、立ってたら膝から落ちてたかもしれないくらい。
疑似ヒートになってもすぐに対処出来るよう、教室からカウンセリングルームに移動した。
フェロモンがこもらないように開けっ放しにしてあるドアの向こうにグラウンドでランニングをする部活中の生徒の姿が見えた。
(そういや、2年になったら陸上部入っても良いって話どうなるんだろう?)
「永井はさー、部活、何すんの?」
「俺は柔道部。慶介は?」
聞き捨てならぬ何かを聞いた。
「・・・・・・、名前呼びすんな」
「俺は永井大征。大征 って呼んでくれ」
「呼ばない。酒田ですら名前で呼んでねぇのに。永井で十分だろ」
「じゃあ、なんで酒田だけ慶介って呼んでんだよ?」
「それは、いっ────・・・警護だからだよ」
うっかり『一緒に住んでるから』って言いそうになった。
酒田は信隆さんのことも本多とは呼ばない。酒田が呼ぶ『本多さん』は景明のことを指すのであって、慶介はやっぱり『慶介』なのだ。
「慶介は、道場の本多さんの甥なんだ。俺は本多さんの依頼で警護してるから、呼び方でごっちゃにならないように俺は名前呼びさせてもらってるだけだ」
ナイス酒田、良いフォローだ。
アイコンタクトで感謝しておく。
「じゃあ、俺も道場の本多さんの元教え子だから『慶介』でいいだろ」
そして、お前はしつこいな。絶対に諦めないタイプだな。面倒くせぇ。うん、無視しよう。
「ちなみに、俺は今年から陸上部に入るはずだったけど、進級早々、緊急抑制剤のお世話になったから、多分ダメになるんだろうな」
「それは、仕方ないだろ。俺たちは運命の番なんだから」
(確かにフェロモンはイイ匂いするけど運命とは違うッ!)
その件については遺憾の意レベルに抗議したい。
あと、やりたかったことが潰れるのは普通にムカつく。特に不利益を被るのがオメガ側だけってのが気に入らない。仕方がないこととは理解していても、腹は立つ。
「慶介、俺はお前に運命を感じた。運命の番に出会えるなんてこんな幸運はない。大阪に戻ってきたのも運命だったんだ。婚約者はいないって聞いた」
椅子から降りて片膝をついた姿に嫌な予感がして半身引いたが遅かった。
永井は慶介の手を引っ張るようにして取り──
「慶介、番になってくれ」
ワォ~、ど直球の告白を通り越したプロポーズですね。
ま、断りますけど。
「嫌だよ。初対面だろ。俺はフェロモン過剰反応の慣らしだけで手一杯だ」
「番になれば、過剰反応の心配はなくなる」
「なおさら嫌だよっ。生涯一度きりの決断をこんな簡単に出来るかぁ!」
酒田のスマホが鳴って『時間だ』と告げた。
「短すぎる!」
「元より送迎が来るまでだと言ってただろ」
怒る永井と酒田が軽い言い合いをしているうちに退散してやろうと立ち上がったら、永井が急に服を脱ぎだし、上半身半裸になってインナーを突き出してきた。
「服が欲しいって言ってただろ」
「・・・あ、ああ。うん・・・」
『インナーじゃなくて、カーディガンで良かったんだが?』と思いながら受け取ったインナーはまだ体温の温もりが残っていて・・・
(ヤバい、めちゃ、理性が、溶ける──)
間。
ゆっくりと瞼を開けると、目の前に半裸の永井がいてギョッとした。
(いや、違う。今、自分、何してた??)
ニンマリと満足げな笑顔の永井と握ったインナーを見て、自分がしでかした何かの予想がつくと、頬が、額が、じわじわと熱くなる。
「わ、忘れろッ!!」
『あ”~~~ッ!!』と唸りながら両手で顔を覆い隠す。その手にあった服からまた甘い匂いがして、頬が緩んでしまい、持っていたそれを睨みつけて『ぬんッ!』と床に叩きつけた。
その全てを微笑ましげに見つめられてることも余計に腹立たしくて、
「てめぇは、早く服着ろー!!」
と、捨て台詞を吐いて逃げ出した。
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