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第30話 アプローチ

 フェロモンの慣らしは終わった。  慶介の精神的な何かを犠牲にして。  やっと獲得した平穏に『今日からは日常が始まるはずだ。そうでなければ困る』と陰鬱なような、晴れやかなような、両極端な気持ちが混在する心持ちで学校へ向かう。 「インナーはいらなくなった」 「じゃあ、アプローチかけても良いのか? 放課後だけの縛りはおしまいか?」  借りた服を返し、慣らしが終わったことを告げると、永井は目を輝かせグイグイと迫って来る。  慶介の想像していた日常の光景が、明日来るはずだった今までの平坦な毎日の姿にビシリッとヒビが入り砕け落ちていく。  アプローチはかけてほしくないし、  縛りがなくなったら何されるかわからないし、  放課後はとっとと部活に行って欲しい。  てか、関わり合いになりたくない。  思った事がギリギリ、口には出なかったが顔に出て、慶介の不機嫌を察知した酒田がフォローに入る。 「慣らしが終わったとは言ったが、過剰反応が起こる可能性は依然として高いままだ。だから、誘引フェロモンは絶対に使うなよ。アプローチは軽いものから様子を見ながらにしてくれ」  『どの程度なら良いんだ?』と細かい確認をする永井と酒田を横目に慶介は授業の準備をする。  準備と言っても大したことない、教科書とノート、筆箱・・・の横に置く水なしで飲める追加の抑制剤。  少しでも悪寒を感じたらすぐに飲むこと。不安ならいつでも飲んで良いが、常用する薬じゃない事は記憶に留めておくように。と景明に言われた。  慶介が今、一番頼りにしているのは景明だ。永井が現れてからの信隆は『学校に行かなくても良い』や『オンライン授業を受けろ』ばかりで話にならない。水瀬は景明の仕事を代行中で『絶賛、秘書やってます!』って感じ。酒田は今まで通り頼りにはなるけど、どこか一歩引かれて、ここぞという時に永井から守ってくれていないような気がする。 「わかった。じゃあ、ゆっくり口説けばいいんだな。な、慶介? 初対面だからだめなんだろ? これからはもっと時間取れるし、俺のことを知ってくれ」  ほら、永井をブロックしきらない。  俺としてはシャットアウトして欲しかったのにな・・・。  あと、永井。世間はお前をポジティブと評するかもしれないが、俺にとっては面倒くささの塊だよ。 「一緒に昼飯食おうぜ!」  後ろから永井が抱きついてきてビックリした。  授業の合間の5分休憩の時間すら慶介の前にやってきて、ヤンキー座りでニコニコとしていただけだったので、接触は禁止なのだと思い、油断した。  近すぎる距離で受けた永井のフェロモンに慶介はフニャフニャと体から力が抜けて崩れ落ちる。『おっと』と一言、永井は膝から落ちる慶介を難なく持ち上げ、スルスルっと一瞬のうちに前抱きで抱え直した。 「ははっ、俺の匂いで腰砕けになっちゃった?」 「・・・・・・・・・は?」  その腕の確かな力強さと、あまりの早業に、文句を言う暇もない。いや、文句そのものが出てこない。  いつもより見開いた目が現状を理解できないみたいに右に左に揺れている。二拍三拍と間を置いて永井の体温が移ってきた事に気づいてバッと体を突き飛ばす。しかし、柔道部だからだろうか、服の袖をガシッと掴まれて思ったほど距離をとれなかった。 「き、急に、抱きつくな! ──ってか、離せよ!」 「ふふっ、可愛い。猫パンチみたい」  胸や腹を殴ろうとしているのだが、服の袖を掴まれたままなので上手いこと力を逃されている。『こうなりゃ足を踏んでやる!』と思ったところでやっと酒田が間に割って入ってくれた。 「そこまでだ永井。俺たちはキッチンカーの予約してあるから、選ぶなら1人で行ってこいよ」  その後も、トイレに行けば帰りを待ち伏せされて壁ドンされ、至近距離で『どこ行ったかと思った』と囁かれた。つい、永井の低い声にウットリとして、唇に目が惹きつけられて見入ってしまう。『あごクイ』をされ、今にも触れ合いそうな距離まで接近した唇を親指でなぞられて── 「こんなとこではヤらねぇよ。初めてのキスはちゃんとしたいからな」  と、言う永井の一言で、正気に戻り押しのけようと腕を払うが、サッと避けられてしまう。  後を追いかけながら『さっきのは違うから! 永井ッ、勘違いすんなよ!』と文句を言うが、その手はちゃっかり永井と手繋ぎをされていて、教室に戻って初めて気づいてオーバーリアクションで手を振りほどく。  部活動に行く前には『行ってきます』とこめかみにキスをされてしまった。これには酒田も怒り、永井の脇腹にフックを入れて蹌踉(よろめ)かせていた。  お茶会は『運命が出来たんじゃ勝ち目はない』なんて理由でなくなった。だが、永井がいる以上、ナンパ禁止の自習室はやはり慶介の大事な避難場所だ。  部活終わりの永井は強烈だった。体から湯気が立つようにフェロモンを濃く感じる。  その状態で『あとは帰るだけだから良いだろ?』と後ろから羽交い締めにされて項の匂いを嗅がれ、慶介は誘惑フェロモンを放出しそうになった。  慣らしたはずの永井の匂いに心臓は激しく脈打ち、ゾクゾクと性的興奮が高まり震えた。尻の穴が滴りそうなくらいジュワッと濡れて溢れそうになる。慌てて手で抑えて穴を閉めたらその動きのせいで腹の中がキュンと感じてしまう。 「──ぁ、ダメっ、離して、っう~・・・!」  酒田が永井を引き剥がし、へたり込んだ慶介に制服を被せて永井の胸ぐらを掴み凄む。 「永井ッ!! いい加減にしろよ・・・! 慶介が学校に来れなくなっても良いのかッ?!」  先が思いやられる慣らし後の初日だった。 *  通常のフェロモンになれた慶介に、乗り越えなければならないものがもう1つある。  永井の誘引フェロモンだ。  誘引フェロモンは微量であれば、フェロモンの相性を確認する挨拶でも香らせる事がある。いくら、使わないようにと厳命していても永井ならいつ使うか分からないので、どの程度のフェロモンで慶介が反応してしまうのか確認しておきたかった。  誘引フェロモンの実験は、永井を慶介の自宅に呼ぶわけにもいかないので学校のヒートシェルターを借りた。  今日は、景明が監督の元、挨拶程度から少し悪意をもってナンパする程度までを試す。  少し広い保健室のような部屋で、慶介と永井が向かい合って椅子に座り、景明は永井の後ろ、酒田は慶介の後ろに立つ。何かあればすぐ取り押さえられるよう、慶介が疑似ヒートに入ったらすぐに緊急抑制剤が打てるよう、それぞれがスタンバイして実験を開始する。  永井が慶介の手を取りキスをした。  ジワリといつもより濃い甘い匂いが広がった。 「俺の運命、番になってください」 「やだよ。誰がなるか」  いつものフェロモンよりも濃い匂いだったが、永井のフェロモンに慣れた慶介は『これくらいなら軽くいなせる』と、べっと舌をちょっと出して拒絶の意志を示す。  それでも、体の中から何かが溢れてきそうになる感覚は、空気の入った風船を水の中に沈めるような困難さがあり、強い集中力を求められる。  フェロモンの存在を知るキッカケになったあの一軒で、なぜあんなにも激しく誘引フェロモンに反応してしまったのか分からない。だからこそフェロモン過剰反応と診断されたのだろうけど。 「早く、その口にキスがしたい」 「手にキスしてろ」  いちいち甘ったるい言葉を吐きながら誘引フェロモンが強められ、誘引フェロモンといつものフェロモンとの違いを実感する。さっきのが気を引くための舌打ちだとするなら、今は口笛で呼ばれている。  気のせいだと無視する事ができず、明らかに自分に向けられている呼びかけに気が取られて、浮き上がってくる何かに対する集中が切れる。  手にキスしてろ。と言われた永井は『チュ、チュ』と遠慮なくやりまくる。それが少しずつエロく誘うように見せつけられて、下半身がピクリと反応した。 「もう少し強めるぞ? ・・・どう? 俺的に20%くらいなんだけど」  憎まれ口を叩く余裕もなくなった慶介の顔がみるみる赤く染まり、鼻息が荒くなる。手はTシャツの裾を引っ張り、完全に勃ったソコを隠そうとしている。 「──クソッ、なんで!? ・・・なんで、俺だけ!」  慶介は3人の男に囲まれて、自分ひとり性欲を煽られ勃起して興奮しているこの状況が情けなくて、悪態をつく。  うつむく慶介の顎の下をするりとなでる手が顔を持ち上げる。上向いた顔に飛び込んでくるのはスポーツイケメン。造形の整ったパーツが並ぶ中、顰められた眉とギラつく瞳が永井も性欲を煽られた熱量を持っていることがわかる。 「俺だって、いつもお前のフェロモンに惑わされそうになってるぜ。慶介のフェロモンは甘い。口に入れていつまでも舐めていたいような、とびきりに甘い匂いだ」 「・・・そうなん? ・・・俺の匂い、イイ匂い?」 「ああ。今すぐ、お前を連れ帰りたいよ」  永井は4段階目の実験、悪意を持ってナンパに使うレベルの誘引フェロモンを出した。  途端に慶介の様子がおかしくなる。手を振り払い、胸と腹のあたりの服を絞るように握りしめ、なるべく息をしないようにしながら体をこわばらせる。  ハッ、ハッ、と浅い息をしながら耐えていたがついに堪えられなくなり、限界を告げる。 「──ストップ! も、やめっ、とめて!! ・・・ぅぐー・・・」  永井は『実験の終了か?』とアイコンタクトをとったが、景明は首を横にふる。永井は段階を上げないよう、誘引フェロモンを放出し続けると、危機感を感じた慶介は、誘引フェロモンから逃げるために物理的に離れようと椅子から立ち上がった。  しかし、その手を永井が捕らえる。腕を掴まれた事が快感としてビリビリと全身に響き、慶介は床に崩れ落ちた。 「んあぁっ! だめ! いらない! もういらない!」  最後の抵抗として掴まれた手を引っ張り、爪を立てて剥がそうとするが、その力はとても弱く振り払うことが出来ない。  涙で潤んだ瞳が永井を見上げて、瓦解一歩手前の理性で歯を食いしばるが、頬は上気して口元は緩んでしまっている。その姿はいかにも扇情的。 「はぁ、かわいい・・・俺のオメガ・・・」 「お前のじゃないっ、お前の匂いなんていらないっ。離せ、あっちいけ。もう、いらない。もういらねぇのっ・・・! うぅ、いらないって言ってるのにぃ・・・、言わせんなよぉ!」  と、半泣きになりながらポカポカと永井を叩く慶介。  それでも最後まで誘惑フェロモンを返さず、疑似ヒートにも入らなかった。その点においては、踏みとどまれたと言えなくもないが、慶介の取った行動を見ればギリギリアウト。  景明は永井に『今後も誘引フェロモンは禁止だ』と厳命を申し渡し、永井はそれに頷きでかえした。  実験終了の合図で誘引フェロモンを引っ込めた永井の手が緩むと慶介はすかさず振り払い駆け出すが、それをまた永井が追いかけ捕まえた。捕まった慶介は永井の腕の中から逃げ出そうとジタバタと暴れて喚いた。 「やだッ、はなせぇ、番なんてならねぇもん~ッ!!」 「わかったわかった、落ち着け、暴れるなって。はあーー・・・ホント、可愛いなぁ。噛みてぇ~」 ***

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